中国・河北から東北の旅

☆11/11更新☆

第17回(最終回)
 戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

 

最後に立ち寄った観光コース 北稜公園

 北稜公園は、今回の旅行で訪れた唯一の観光地だ。1651年の造営で、清第二代皇帝太宗皇太極(ホンタイジ)夫妻の墓がある。面積320万平方メートル、正面から石碑坊まで2km、徒歩では20分かかるので龍の遊覧カーが運んでくれる。両側は池や森である。

 まあ、大きいわ古いわは中国の十八番で恐れ入るけれど、その皇帝は在位の間中、自分の墓の造営に明け暮れていたことになる。何のために皇位にあり何のために生きたのかと問うてみたくもなってくる。

北稜公園、320万平方メートルの公園は広大だ

 中国での最後の晩餐は遼寧省人民対外友好協会副会長である陳鉄城さん主催で行われた。

遼寧省友好協会の招待による最後の晩餐も盛り上がった。

 
長いようで短いようで

 第11日目(28日)、いよいよ本日中国を発つ。瀋陽から、一旦北京に出、それから関空へ向かう。

「長いようで短いようで」という表現はよく用いられるが、この11日間はまさにそんな日々であった。はじめの2〜3日は食べ物をはじめとして中国の生活に耐えられるだろうかという不安があったが、だんだん慣れてきて、「もう帰国の日になったの?」という感じに変わってきた。その間、実に密度の濃い調査・研究旅行だった。

 収穫のひとつはなんといっても日本軍が大陸に残した加害者としての爪跡を実際にこの眼で見、感じたことである。それは遺跡や建築物に残されているだけでなく、チチハルの遺棄毒ガスの被害にみるように、今に続く傷跡となって現在に生きているのだ。

 二つ目は、中国の関係者からの説明や研究者の報告、被害者の証言などを聞いたり懇談する中で、調査・研究というものが、少し分かった気がしたことだ。それに、団員研究者たちの執拗とも見える熱心な質問、文献や資料へのこだわりにも触発されることが多くあった。

 三つ目、中国の人たちの労を惜しまぬ接待や歓迎ぶりに驚いた。これは中日友好を意識した行為というよりも、中国国民の「友人」を大切にする国民性によるものかと思った。そうした意味でも、日本人として反省すべき点の多々あることを感じた。

瀋陽で3泊したホテル「時代広場」ともお別れだ

 
北京空港での最後のミーテイング

 北京空港内の食堂で昼食を終えた後、11日間ずっとお世話下さった黄嵐庭さん、邵維堅さんとお別れの固い握手をした。中国での最後の慌ただしい時間である。その食堂に陣取って、今回の調査・旅行の記録をどうやってまとめていくかを相談した(その訪中記録『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第5巻第1号』は8月になんとか発行できた)。

食堂の椅子の背もたれに置かれてあるカバーは、盗難防止のためのものだと分かった

 
語り継ぐことを約束して

 今、戦争放棄を条文に掲げた世界に誇るべき日本国憲法が危うくなっている。それはあの戦争の忘却から発しているともいえる。それゆえに、戦争を記憶し記録することは大切であり、戦後責任の追及は今日のわれわれに課せられた大きな課題であるといえる。この調査・旅行で学んだこと、とくに生物・化学兵器にまつわる日本の戦争責任について、今後も多くの人たちに語っていきたい。

 こうして私たちの旅は終った。この研究会の第1回目に参加した2000年春、石井四郎が私と同じ大学医学部の出身であること、しかも私の関係している病理学教室から多くの七三一部隊関係者を生み出していることに複雑な感慨を抱いたことを思い出す。しかもそれらの先輩たちは、何も語らず、何も反省せず、戦時下の研究成果を糧にして名誉と権力を手に入れたし、周囲もそれを許した。この戦争犯罪への無自覚・無反省が、真の民主化や平和の実現あるいは人権の尊重を阻んでいるのではないか。その思いに駆られての今回の参加であった。

 この調査・旅行は、中国の人たちに対して幾分かの贖罪になりえたであろうか。

「勤続30年」の休暇を利用して参加したこの旅行は、わたしにとって民医連(民主医療機関連合会の略称)という医療機関で活動してきた30年という年月の一つの節目ともなった。また、昨年、大病を患い、人の生命についても身近な問題として考えられるようになった、そのような時期に経験できた出来事でもあった。

さいごに

 この旅行の成功は、訪中団の団長や副団長、団員の皆さんのご尽力、それに中日友好協会の黄嵐庭さんをはじめとした多くの中国の方たちに助けていただいてのことあったことを思い、ここに深く感謝致します。とくに、中国の人たちの親切なもてなしには、社交とか儀礼とは別の深いところから溢れ出てくるものを感じました。機会があれば再度訪問して、戦争と医学に関する傷痕を、より進んだ形で学びたいと思っています。

 この連載にあたっては、団員たちでまとめあげた訪中記録『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第5巻第1号』の草稿を参考にし、また貴重な写真を利用させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

 最後に、私事ながら、どうしても書き加えておきたい事があります。4月18日中国へ旅立つ朝、容態が悪くなったとメールを下さり、気になりつつ帰国してすぐに連絡をとると、旅の話を詳しく聞きたいと繰り返し言っておられた、畏友であり執友(同じ志を持ってかたく結びついた友人)でもあった坪内弘行さんが5月3日に急逝されました。

(千葉県船橋)市政を改革したいというかれの行動力を尊敬し、また、私の医学界への戦争責任の追及については、暖かくはげましていただく間柄でした。所は違え、同じ民医連に働く医師として、また病理医として、深く理解しあえた友人(5歳も先輩であるのに友人とは失礼ですが)に先立たれたことに深い悲しみを覚えます。

「WEBマガジン福祉広場」への中国見聞記の連載を心から楽しみにして待っていて下さったのに、お応えできなくてごめんなさい。おくればせながら、この17回にわたった中国紀行の連載を、坪内弘行さんのご霊前に捧げたいと思います。

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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