中国・河北から東北の旅

☆9/10更新☆

第8回 731部隊

 

松花江のほとり

 ハルピン駅着が正午過ぎ、すぐに宿泊先のホテルに向かう。

 松花江凱菜商務酒店は、松花江のほとりにあり、すぐ傍がスターリン公園だ。そこからは松花江の眺めが美しく、市民の憩いの場となっている。冬には全面凍結して氷の世界と化すらしい。この川は何度も氾濫を繰り返したそうで、大洪水との闘いを記念して人民防洪勝利記念塔が建っている。

 急いで昼食を済ませると、休む暇なく講話を聞く時間である。

松花江の流れはこのあとアムール河(黒龍江)となってオホーツク海に注ぐ

スターリン公園の入り口に建つ町のシンボル、人民防洪勝利記念塔


辛培林さんの話

 黒龍江省社会科学院歴史研究所元教授の辛培林さんの話が始まった。

 1980年代から731部隊の研究を始められた辛さんは、日本にも何度か渡って裁判の証言台にも立たれている。裁判とは、731部隊や細菌戦にかかわる事件で、つい数年前には、731部隊で細菌兵器の研究が行われていたことを認定したはじめての判決もあった。

 辛さんは最近、著書『細菌戦』を出版されており、そこでは731部隊に関係した日本人の名が数百人並べられている。早速その本を購入した。

731部隊について語る辛培林さん(中央)

731部隊とは

 関東軍防疫給水本部・731部隊(石井部隊)は石井四郎軍医中将によって作られ、中国東北部(満州)のハルピン郊外平房(ピンファン)にあった。細菌戦兵器の研究を目的とし、致死的な生体実験を秘密裏に行なうための一大研究施設であった。

731部隊の全容、中央やや右上にロ号館がみえる

 石井の防疫給水本部ネットワーク(石井機関)は中国各地からシンガポールなどの南方にまで広がっていた。

 石井機関の要は東京の陸軍軍医学校防疫研究室にあり、その活動には当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが嘱託として大勢協力していた。

 731部隊は、牡丹江、林口、孫呉、ハイラルに4つの支部をもち、ほかに大連研究所も傘下におさめて支部とし、さらに列車からハルピンへの途中で見た安達(アンダー)には細菌兵器の実験場をもっていた。

 また、関東軍は防疫給水部とは別に、新京(現在の長春)に「軍馬防疫廠」(1935年設立、1941年に「満州第100部隊」と改称)をもっていた。ここは軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当しており、人体実験も行なっていた(本連載の第2回の写真「防疫給水部(石井機関)の設置場所」参照)。

 平房の731部隊では、約6km四方の敷地に3000人あまりの人々が細菌兵器の研究・開発・製造に従事していた。主要な施設の集まった地区は、高圧電流が流れる有刺鉄線を張り巡らした土塀でかこまれ、外部から完全に遮断されていた。

 中心にある「ロ」号館には「マルタ」とよばれる被験者を閉じ込めておく特別の監獄が2つ設けられていた。ここから生きて出られた人は一人もいなかった。ソ連参戦後の撤退時に生き残っていた被験者も証拠隠滅のために全員殺された。

ロ号館、ここに監獄や実験室があった

「マルタ」にされたのは「特移扱」とよばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人達だった。彼らはスパイや思想犯の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人たちで、そのなかには普通の農民や女性・子供も含まれていた。実験材料になった人々の数は3000人以上にのぼっている。

731部隊の石井四郎初代隊長(左)と北野政次第二代隊長(右)


 また、中国の各地で日本軍により細菌爆弾が投下されたことが中国側の研究で明らかになってきている。わかっているのは以下の通りだがこれ以外にも行われていたようである。それらは、ほとんどが七三一部隊などで研究・製造されたものであった。

 (1939年ノモンハンで腸チフス菌を撒いた。1940〜41年 中国中南部にペスト菌を撒いた。1940年 寧波(ニンポウ)作戦。1941年 常徳作戦。1942年 浙韓(ズエガン)作戦)(本連載の第2回の写真「大規模な細菌戦の行われた場所」参照)。




 1945年8月 敗戦が濃厚となると証拠隠滅を図った。あらゆる証拠物品は焼却炉で燃やし、部隊の施設を爆破、マルタや現地の中国人労働者を虐殺、死体を松花江に捨てた。隊員達は特別列車で日本にむかったが、そのとき石井の厳命が下った。「七三一部隊の秘密はだれにも漏らすな!あらゆる公職につくな!隊員同士の連絡はするな!」

 1946年石井は、CICにより2年間にわたり尋問されたが、研究結果をすべて米国にひきわたすという「とりひき」で戦犯免責された。ハバロフスク裁判(1949年)や中国による取り調べがおこなわれ、一部の医師たちが裁かれたが中心となった人物がいなかったせいもあり実態は闇の中にほうむられたままになった。

 1925年ジュネーブ協定にて化学兵器と生物兵器の使用は禁じられていたが、日本の医学者は「戦争犯罪」あるいは「人道に反する罪」として公に裁かれることはなかった。元隊員たちは戦後も医学界をリードする要職に就いて多くは天寿を全うした。その中で、元隊員の内藤良一が設立したミドリ十字の引き起こした薬害エイズ事件もあった。

731部隊跡のシンボルとなっているボイラー室跡、現在残っている数少ないもののひとつ

(次回は9月17日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。