中国・河北から東北の旅

☆8/3更新☆

第6回 チチハル 2003.08.04事件

 

みぞれの降る寒冷の地

 ホテルの湯が出なかったのは、湯になるまでに時間がかかるためだった。昨夜は苦労したが、朝にはそれが分かって一安心、無事解決。

チチハルでの宿泊所兼会議場となった嫩江賓館

 旅の5日目(22日)、今日の気温は8℃〜−2℃という。朝からみぞれが降っている。午前中は、ホテルでチチハル市の方たちとの懇談である。郭海洲さん(市政府顧問)からチチハルについての概略の説明を受ける。チチハル市は黒龍江省第二の都市で人口550万人、農業を主としている。

チチハル市の概要と8.4事件について語ってくれた郭海洲さん(後列は被害者の方たち)

 昨2003年8月4日に地下駐車場建築現場でガス漏れ事故があった。44人が被害にあい、その被災者の治療をしたのが、北京にある307医院教授黄紹清さんである。その先生の話は第2日目(19日)に北京で聞いていた。

 戦後も中国の各地で日本軍の遺棄した化学兵器による事故が起こっていたが、これが最新の最も被害の大きかったものである。

8.4事件については、すでに19日に黄紹清教授から北京・抗日資料館で話をうかがっていた。

チチハル八・四事件

 その日早朝4時、建築工事中に5つのドラム缶を掘り出した。

 一つのドラム缶からはガスが漏れ出していた。二つは破壊されていて中は空っぽだった。一つは概観は綺麗だがさび付いていた。一つは機械で破ってしまった。

気体が噴出し液体が土に染み込んでいったが作業員たちはそれが何であるか知らなかった。

 夜6時になって何人かに症状が出た。夜10時頃、発病した人たち44人が203医院を受診した。皮膚の発赤43人、目が赤くて痛む32人、呼吸器症状15人、全身倦怠感18人、頭痛19人、嘔吐17人、肝機能異常13人であった。

 被害者は8歳から55歳に及んだ。ドラム缶から吹き出したものに接した3人のうちの一人李さん(33歳男)は、眼瞼の充血・出血、皮膚の負傷面積95%で、18日後に死亡した。入院中は、全身の火傷にプラスして骨髄抑制を発症(白血球数1000以下に、血小板5.4万にまで減少)し、肺炎を併発したものと考えられる。骨髄抑制はマスタードガスの作用だという黄先生の説明であった。

 掘り出された土はすでに470台のトラックで市のあちこちに運び込まれていた。どこに運ばれたかを調べて、わかった11ヶ所を封鎖したが、うち5ヶ所からは中毒症状の被害者がでた。毒ガスがマスターガスだと分かったのは数日後のことであった。

 1週間後の11日、ひどく汚染された土は托管所に運んだ。汚染の弱い土は消毒して処理場へ運んだ。土を運び込まれるところでは住民の反対運動もあった。

 結局、入院した人は44人、43名は4ヶ月以内に治療完了し臨床的には一応治癒とされた。一人が死亡。直接ふれたことによる皮膚症状、吸入による中毒、造血・免疫機能の低下、神経系統の障害、消化器系統の障害などがみられた。ほかに重傷者4人、重度16人、中等度11人、軽度12人であった。

手足の皮膚に見られた外傷、より重症の人の写真の掲載は差しひかえた。

植皮手術を受けた女性の証言

 被害者を代表して牛海黄さんが証言した。

 牛さんは廃品の処理をしている工場の経営者だ。牛さんのところに亡くなった李さんが5つのドラム缶を荷車に積んで運んできた。一つのドラム缶のネジが外れていて煙が出ていた。カラシの臭いがした。流涙がとまらず、眼が赤くなり、ふらついて日射病にかかったようだった。

 夜、李さんと一緒に203医院にいった、李さんは意識がおぼつかなく歩けない状態だった。牛さんは翌日には、腹の皮膚に蚊に刺されたような感じをおぼえた。のちに水疱が広がり、植皮手術を受けることになった。

 証言する女性の声が凛として響き渡る。日本政府への要求は、ひとつ、遺棄ガスの処理を早急に、ふたつ、日本の侵略による化学兵器の使用に反省と謝罪を、三つ、被害者への賠償をということであった。

「ふらついて日射病にかかったようだった」と語る牛さん

 今も後遺症が残っているかという団員の質問に対して、同席していた9人の被害者全員が手を上げた。

壁に近く坐っているのは被害にあった方たち(手前背中を見せているのは筆者)

 次に、私たちは治療を行なった203医院へ赴き、医療関係者の話を聞いた。全身の消毒や洋服の焼灼処理治療、あるいは心理的なフォローの様子などが話された。

8.4事件のとき、203医院で特別治療室となった建物

203医院の方たちから当時の状況を聞いた

(次回は9月1日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。