中国・河北から東北の旅

☆9/17更新☆

第9回 戦後にペストが大流行した村

 

医師の犯罪は何故起こったのか

 このような医師の犯罪は何故起こったか。

 戦争という時代状況、「日本民族」は「天皇」を頂点にいただいた特別の存在だという選民意識、人種差別・民族差別・思想差別、「どちみち殺される」者の利用価値という考え方、「医学研究」は崇高であるとの独善的理解、医師に許された「裁量権」という考え、研究の密室性、医学界内部の階級的支配、研究者の業績欲・出世欲などさまざまの要因が見出せるだろう。

 従来手本とされてきたヒポクラテスの医療観や医療倫理の問題点や医学研究はどうあるべきかという問題とも深い関係があり、医学界全体の問題として真摯に反省する必要があるだろう。

731部隊について熱く語られる辛培林さん(右)


新宿で大量の人骨が発見

 1989年7月22日 東京都新宿区戸山町の陸軍軍医学校跡地から大量の人骨が発見された。

 人骨は100体以上、人骨はモンゴル系だが単一の人種からなるものではなかった。十数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡があり、いくつかの頭蓋骨には、拳銃で撃ちぬかれた孔や刀で切られた跡が残っていた。これらの人骨は七三一部隊から持ち込まれて処理されたものである可能性が高かったが、深い調査は行われなかった。

 医学者が引き起こした戦争犯罪である「731部隊」から学ぶべきことはあまりにも多い。

ハルピン医科大学

 当時存在したハルピン医科大学が話題になったが、辛さんの話では、ハルピン医科大には100人あまりの医師や学生がいてみんな解放軍に参加したという。その人たちは今どうしているのだろう。

 夜は、日本留学中に知り合ったダ志剛さんとのなつかしい再会があった。

 ダさんは黒龍江省社会科学院に勤められており、辛さんとも懇意で、団員たちと一緒に夕食を取ることになった。

 談論風発のなかで、中国政府は、1972年の日中国交回復あるいは77年の文化大革命終了後も、大戦後の処理よりも親日政策を優先して、731部隊などの研究には消極的だったのではないかという意見でほぼ一致した。

ダさん(中央左)と辛さん(中央右)を囲んでの夕食会

 第7日目(24日)、旧大和ホテルと憲兵隊本部でもあった総領事館(現鉄路分局)を通過して、いよいよ侵華日軍第731部隊罪証陳列館を訪問する。

 入り口の門から陳列館まででも100メートル以上ありそうで確かに広い。ここは731部隊本部のあったところだ。館内を一通り見学したのち会議室で昼弁当を食べる。三人分くらいの量の飯で食べきれない。

ハルピン憲兵隊本部のあった総領事館(現鉄路分局)、この地下で拷問が行われた。

侵華日軍第731部隊罪証陳列館、本部の建物は残っている。

陳列館内の会議室で昼の弁当を食べる団員たち


一族のほとんどが殺された靖福和さんの証言

 館長である王鵬さんの挨拶を受けた後、被害者である靖福和さんの話を聞いた。

 『高校生が追う ネズミ村と731部隊』(埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司編著、教育史料出版会)で高校生たちが涙の対面をしたあの靖福和さんだ(本サイト連載「若田泰の本棚」参照)。

 靖福和さんは731部隊から3km離れた村に住んでいた。1945年7〜8月に3つの村で200人がペストで死亡。靖さんの小さな村では50人くらいが亡くなった。祖父の妻から始まってその子供が2人、父、姉弟、の3人が3日の間に死亡した。親族の12人がなくなった。

 12歳だった靖さんは、731部隊について、大きな工場があるとは思っていたが何をするところかは知らなかった。ペストが流行して次ぎ次ぎと死者が増えてくると、はじめの死者には出せた葬式が、次からはもう葬式を出す人がいなくなってしまった。

またたくまに親族12人が亡くなったと話す靖福和さん

 日本が敗れ去った後の時期に、このあたりではあまり見かけない白ネズミが見られた。死んだネズミを子供が押しつぶすとのみが出てくるのが目撃されたりした。

 そういえば、731部隊のあった頃、一人頭当たり3匹のネズミを年2回拠出することを課せられていた。それが何に使われていたのかは知らない。家中の者が次々とペストに罹患したとき、靖さんは母の実家に避難しようとしたが、入れてもらえず、また、もとの家に帰って来た。それでも靖さんだけは発病しなかったという。

 敗戦の後までも、無関係の周辺住民に、多大の犠牲を蒙らせた731部隊の罪業の深さを思った。最後に私は、是非にと、並んで写真を撮るようお願いした。

靖福和さん(左)と筆者、戦争処理問題の解決を願って

(次回は9月24日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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