中国・河北から東北の旅

☆10/15更新☆

第13回 人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・
     ――満州医科大学微生物学教室

 

北野政次の人体実験

 微生物学が専門の周政任教授は、前身の細菌学教室と731部隊との関係について話された。

 ここには、1936年から1942年までこの大学に籍を置いていた細菌学教授北野政次の消せなかった資料が残っている。証拠は隠滅したはずであったのに、戦後の中国で、北野の犯罪が暴かれることになったのだ。

 東北人民政府衛生部伝染病防治院発行の医学雑誌「防治医学」(1951年)に載っている内容だ。

 1939年、北野政次は発疹チフス予防接種に関する論文を書いた。未発表のものであったが、この論文を自らの別の論文「発疹『チフス』及び満州『チフス』の予防並に治療に関する研究(二)」(日新治療,295号(昭和17年9月))でタイトルを引用していた。

 その未発表論文が戦後、中国で発見された。そこには、13人の元気な中国人を使って発疹チフスを感染させ、生きたまま解剖したという研究が記されていた。北野は論文の冒頭でこう書いている。

「われわれは臨江地方で10人の志願者と3人の死刑囚を使って人体実験を行なった。かかる実験は、われわれが最初でもなければ、われわれの発明でもない。欧米各国は早期より死刑囚を利用して医学実験を試みてきた。われわれが実験に使った人体は、発疹チフスにかかったことがなく、かつその他の急性的熱性病にもかかったことのない32歳から74歳までの健康な男性であった」と。


 13人のうち、2人には予防注射をせずにチフス菌を注射した。11人にはワクチンの予防注射をしてから1ヶ月後に接種した。2人は、チフスを発症して十数日目に生体解剖された。また、11人のうち5人が発症、うち1人は、本当にチフスかどうかを確かめるために生体解剖された。

北野政次がおこなった人体実験・生体解剖について語る周教授

 中庭には、防空壕のような奇妙な形の地下室があった。対になった入り口の一つを懐中電灯に案内されながら下りていく。この部屋には電灯がなくて真っ暗だ。

 満州医科大当時はハタリス飼育室として利用されていた。外の気温の影響を受け難いこの部屋がハタリスの飼育に適当だったとのことである。戦後は倉庫として利用されていたらしいが、今は荒れていて、割れたビンのかけらなどが歩く通路をふさいでいる。

 真っ暗な部屋の奥を電灯で照らすと一番奥の壁際に「群霊碑」と彫られた石碑が見られ、「昭和16年12月8日建立 北野政次」と刻まれていた。実験で死んだ動物の霊をなぐさめるためにつくられたものらしい。

 この「群霊碑」のことは、戦後、日本医事新報に連載された「防疫秘話」で北野政次が何の反省もなくふれている。設備の整ったこの動物飼育室を、北野はよほど自慢だったらしく、動物の慰霊碑を建て慰霊祭も行なったらしい。

 731部隊にあった小動物飼育室も、外観はたしかにこれに似かよっており、第二代隊長となった北野が作ったものかもしれない。しかし、動物には感謝するふりを見せた北野ではあったが、犠牲にした人間に対しては“慰霊”することさえも思い至らなかったのではなかろうか。

大学の中庭にある奇妙な形の動物飼育室入り口

 

地下にあるこの動物飼育室は、戦後、倉庫として使っていたらしく、標本瓶が散乱している

 

元動物飼育室の一番奥に、北野の建てた「群霊碑」があった。

同胞を実験材料にせざるを得なかった医学研究者の悲劇

 話の中でわかったのは、姜教授、周教授の両先生は同級で、この大学の1963年の卒業であったということだ。その頃、日本軍を悪く語る人もいなくなっていたが、張不卿さんとは学生時代からの知り合いだったと姜教授は言った。

 当時、満州医大の教官や職員はみんな日本人だったという。しかし、学生や院生には中国人がいた。そうした人たちは、中国人を材料にしての研究をどう思っていたのか。その疑問に答えるべく、周教授は自分の恩師である景先生についてこんな話をしてくれた。

 微生物学の恩師であった景先生は、満州医科大の第一期生の中国人として入学していた。

 卒業後も満州医大で研究をしていた彼に対して、満州医大にやってきた北野政次が4時間くらいかけていろいろとテスト(口頭面接)を行ったという。目的は、景先生が日本人に対して忠実かどうかを確かめるためだった。

 北野は丁度、発疹チフスの実験の最中で、景先生にネズミの肺から発疹チフス菌を取り出す任務を与えた。それはワクチンにもなったが、生体にも注射して死亡させたこともあったはずだ。

 北野に連れられて刑務所に行ったこともある。そこでは被験者の体温を測る仕事をさせられた。注射をするところは見なかったが、何をしているかはうすうす感づいていた。

 戦争が終わった1945年8月に、景先生は逮捕された。景先生が発狂したのはこのときだった。釈放されて、病気は2〜3年後には一旦は治ったが、その後再発と緩解を繰り返したという。立場上、日本人医師の人体実験に荷担せざるを得なかった中国人医師の苦渋と悔恨が想像できる。

 

中国医科大学校内、満州医科大当時看護婦寮であったところ

 

(次回は10月22日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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