中国・河北から東北の旅

☆11/05更新☆

第16回 戦犯管理所での温情を中日友好へ

 

「改造」の奇跡 撫順戦犯管理所

 次に撫順戦犯管理所を訪問した。ここは戦中日本軍が中国の愛国者たちを監禁し拷問を加えた監獄だったが、戦後、日本戦犯の「改造」の場として使われた。ここで、多くの元軍人たちが戦争の誤りを認め自らの責任を深く反省することができた。その様子は「若田泰の本棚」『中国撫順戦犯管理所職員の証言』(新井利男資料保存会編、梨の木舎発行 2003.02)に書いた。そこから少し引用してみよう。

撫順戦犯管理所

 日本からの解放後、中国共産党は国民党に勝利し1949年に中華人民共和国を成立させた。しかし、政府として認めたのはソ連をはじめとした少数の社会主義国に限られ、国際世論は冷たかった。

 敗戦時、中国東北部にいた日本軍人たちの多くはソ連の捕虜となっていたが、中国を国際的に認知させるチャンスとすべく、日本人捕虜を譲渡することをソ連側が提案してきたのだ。

 撫順の監獄だったところに戦犯管理所が用意された。ここは過去、日本が中国の愛国者を監禁したところだった。拷問による悲鳴が絶え間なく聞こえ、中国人が殴られ死んでいった同じ場所で、今度は逆に日本人が分不相応の待遇を受けることになる。

 中国共産党から出されていた指令は、「ひとりの死者も出すな、ひとりの逃亡者も出すな」であり、教育の目的は日本の戦争犯罪の非を自覚させることにあった。

 職員たちは皆、はじめは仕事を断った。だれにも日本兵に殺されたりいじめられた過去があったので、公平に教育できるという自信がなかった。日本人捕虜は皆死刑になるべきだと思っていたのだ。

 1950年綏芬河(すいふんこう)で、シベリアからの貨車から降り立った日本人戦犯約千人は、捕虜後5年はたつというのにまだ戦闘服を着て上官は威張りくさり、民族差別や女性差別に凝り固まっていて侵略戦争への反省は見られなかった。

 我慢に我慢を重ねていた職員たちも、戦犯たちが自分らよりもいいものを食べていることを知ったときに、怒りは頂点に達する。戦犯を優遇する党の政策が理解できなかった。家族を虐殺された人、その仇を取るために八路軍に入った人にも彼らを殴ってはいけないというのか。

 しかし、上からの方針を職員たちは忠実に守った。「改造」で効果を発揮したのは参観学習であった。バカにしていた中国がいかに共産党政権下で復興しているかを見せるのである。事実を見せられ、レーニン『帝国主義論』を学ぶ中で、ほとんどの者が自らの罪を反省して語り始めた。

図書館で学習をする戦犯たち

 こうした寛大政策ができたのは、中国共産党の指導だったからだ。

 人の善意を信頼し、人が悪いのではなく受けた教育や環境が悪かったせいなのだ、日本軍人とて皆、日本の資本家や大地主に搾取された犠牲者であるという考え方にあった。また、納得は出来なくても命令だからと自分に言い聞かせる党への信頼と“教え”にもあったと思う。

 たしかにマルクス・レーニン主義だからこそ可能だったといえるだろう。その理論が可能にしたのはもちろんのこと、中央の決定した方針には無条件に従うという規律もこの場合は役立ったろう。中国共産党の英明な政策が彼らを「鬼」から「人間」に変えさせたといえる。

戦犯収容所の中庭、見えている石の台は洗濯場

 

運動会が行われたのも、この中庭か

 

戦犯たち一同に会してのラジオ体操風景

「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」は1956年6月9日から7月20日まで瀋陽と太原で行われた。起訴された45人の内分けは、日本軍人戦犯8名、「満州国」官僚・憲兵・特務・警察の戦犯28名、「国民政府・軍参加」戦犯9名で、判決は最高刑20年最低8年で死刑や終身刑はひとりもいず、おそくとも1964年までに全員満期前に釈放された。他の1017名は起訴免除ですぐに釈放された。

「改造」とは、罪を犯した者を人道的に取扱い、教育によって新しい人間に再生させることだ。彼らは「洗脳」されたのではない。強制ではなく、「自立的な倫理」をひとりひとりが獲得したのだった。

 彼らの多くは中国帰還者連盟(中帰連)に結集して戦後の日中関係の改善に努めた。希望に溢れていた「社会主義」に花開いた奇跡的とも思えるこのエピソードを、今の国際関係を考えるときにも忘れてはならないと思う。

戦犯たちが寝泊まりした部屋、12人が一緒だった。

 以上、長い引用になったが、こうした感動的な歴史的事実が実物を見る中で確かめられる。

 残っている建物は当時のままだ。隣の棟は今も女性監獄として使われているらしい。十二人部屋、溥儀の部屋、映画などを見たらしい講堂(演芸場)、面接室らしき部屋、日当たりの良い庭には洗濯場もあった。全室スチームが通っていて快適そう、確かに職員たちよりも食事が良かったという特別の扱いが理解できる。

 スポーツ大会も演奏会も演劇もし、マルクス主義の本も読んで、多くの満州国軍人幹部が「改造」された。戦犯管理所にまつわる美談は決して中国側の創作や誇大宣伝ではない。実に、奇跡としかよべない世界史上の出来事であったと私も思う。それは、暁の勢いにあった中国共産党下にあってはじめて可能だったのだろう。

 もちろん、表面的にだけ非を認めた人も中にはいただろう。しかし、大多数の人たちが自らの過ちを悔いて帰国後も中帰連に属して日中の友好に力を尽くした。あのラストエンペラー満州国皇帝溥儀(1950年から1959年までここで過ごした)でさえも、10年を要して自らの非を認めることができたのだから。一人の死刑者もださなかった裁判所は昨日見学した映画館になっていたところだ。

映画を観たり、みずから実演もした講堂(演芸場)

 

管理所で楽器を買ってもらってさっそくバンドをつくった

 
憲兵土屋芳雄さんのこと
 
 所内には、チチハル憲兵隊にいた土屋芳雄さんの写真も展示されてあった。731部隊へ送り込んだ張恵民さんの娘氏に、戦後訪れて土下座して赦しを請うている写真も添えてあった(「若田泰の本棚」『良心の告白』参照」。

戦犯たちが自ら犯した犯罪を謝罪して建てた碑

(次回は11月12日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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