中国・河北から東北の旅

☆10/01更新☆

第11回 「勿忘(ウーワン) “九・一八”」 
     9.18歴史博物館にて

 

中国の人たちの生活

 第8日目(25日)、中国の人たちは朝早くから行動を開始する。

 スターリン公園に集団を作って気功や体操をしている人や散歩をする人たちが居り、すぐ近くの横丁の市場では、すでに多くの市が出されて賑わっている。屋台で売る人から、地べたに新聞紙を敷いて魚を放り出して売る人などいろいろ。活気に満ちて、みんな生活に一生懸命なように見える。

 そうした人たちと朝から体操をする人たちとはおなじ層の人なのかと思ったりもした。

ホテルのすぐ近く、スターリン公園の裏通りでの朝市は活気に溢れている。

 

品物を地べたに無造作に放り出して売っているのをよく目にした。松花江で獲れた魚か。

  ホテルの部屋のトイレの水が出ないから、廊下にあるトイレを使わなくてはいけない。

 フロントに電話をしたが私の英語は通じず、精算時にそのことを漢字で紙に書いて知らせると、こちらのやり方では通じたようだ。OKというそぶりはしたものの謝罪のことばはなかった。よくあること、お互い様ということか。

 今日はハルピンを発って空路で瀋陽へ向かう。

 バスで向かう空港への途上、歩道から身を乗り出して両手を挙げて、何やら二文字かいた大きな紙をかざしている人がたくさん見られる。「職を求む」人たちらしい。今日は日曜日だというのに、生活のために働かなければならない人がいて、その働き口がないということなのか。

 乗用車のドアをノックされて窓を開けると、赤ちゃんを抱いた女乞食で、金をせびられた団員がいた。案内の人によると、これらは皆にせもので、楽に金が手に入るからそうしているに決まっていると冷たく言う。それにしてもこうした「社会主義国」とは一体なんだろうと思う。

 ハルピン空港で売っている本はもちろん中国語のものばかりである。写真の多そうな「早わかり世界文学」という類の本を買ってみた。機内ではこの本を読んで楽しんだ。

 中国語で書かれた作者と題名を、頭をひねって推理するのが面白い。たとえば、亜励山大・小仲馬はアレクサンドル・小デュウマで、茶花女とは椿姫であるらしい。


9.18歴史博物館

 10:30 瀋陽空港着。宿泊先ホテルに荷物を置いてから9.18歴史博物館を訪れる。

  巨大な石が立ったように見える特徴的な建物である旧館の前には、日本軍の建てた記念碑が横になったままの状態で置かれてある。

この碑は、東北地方への本格的侵略の契機となった「柳条湖事件」を誇って日本軍が作ったものだったが、文化大革命で倒されたらしい。

 壁面には江澤民の筆による「勿忘“九.一八”」と大きな文字で書かれてある。この館も青少年の教育の場として大いに利用されているらしい。

横倒しにされている日本軍の建てた柳条湖事件の「記念碑」

 

9.18歴史博物館が1999年にオープンする前の旧館。

 1931年(昭6年)9月18日夜,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が関東軍によって爆破された。これを中国側のしわざだとした関東軍は軍事行動をおこし,翌年には「満州国」という傀儡政権を発足させた。

 「9.18」は、以後1945年(昭20年)日本の敗戦まで続くことになる15年戦争の始まりの日とされている。
 
 館内にはさまざまの写真と物品が展示されている。

 すごい拷問器具があった。多数の釘が内側に出ている円筒状の鉄の檻で、ここに放り込まれて数回転もさせられれば身体に深く釘が刺さっていずれは死ぬことになるだろう、即死でない分よけいに残虐だ。

 地面に並べられた幾十もの首の写真、階段に散乱する虐殺死体の写真、日本刀をかざしていまにも首を切り落とさんとしている写真、首が胴体から離れた瞬間の写真等々、筆舌に尽くしがたい。

 一方、趙一曼など日本侵略軍に抵抗して闘った英雄の記録も展示されている。

多数の釘が内側に出ている円筒状の鉄の檻

 しかし、この博物館の最後にあったまとめの言葉には少し失望した。展示会場の最後にこう記されている。

 「なぜ直視できないのか 遅れると打たれる 吶喊(とっかん)はわれわれに 英雄を忘れた民族は堕落する 一人でも勇気をもって」つまり、「歴史を忘れてはいけない」というのは、弱ければいじめられるということで、そうならないために努力や勇気が大切というようなことであるらしい。

 この結語は少しおかしいのではないかと思った。国勢を興すには有効なスローガンではあっても、そんなことを言って戦争を繰り返している国があることに気づいていないようだ。これが中国の今の平均的な考えなのか。

 帰りのバスは、日本戦犯が裁かれた旧裁判所跡に立ち寄った。現在は北稜電影という映画館になっている。

 1956年瀋陽で行われた裁判では、最高20年から12年までの禁固刑が28名に下されただけで、一人の死刑者もださず、他の大勢はすぐに日本への帰還がゆるされた。

 その戦犯たちが収容されていた撫順の戦犯収容所は明後日見学予定になっている。

日本戦犯が裁かれた軍事法廷跡、今は映画館になっている。

その前の説明碑、「日本戦犯特別軍事法廷」という文字が読める。

日本戦犯はここで裁かれた

 次に張作霖の乗った列車が爆破された事故現場へ。

 張作霖爆破事件は、中国では皇姑屯事件と呼ばれている。1927年6月、十五年戦争に先んじること4年、中国侵略への策謀を秘めた陰謀事件であった。そのとき丁度列車がやってきたので、爆破された線路とは異なっているが、雰囲気が出ているのでシャターを押した。

張作霖爆事件の事故現場、下を走っている右側線路で爆破事件が起こった。

丁度通りかかった列車、この上を走る列車は大連と瀋陽(旧奉天)を結ぶもので、爆破された線路とは違う。「皇姑屯事件発生地」と書かれた碑が見える。

 

当時の現場写真、北京から奉天(現瀋陽)駅に向かう列車だった。

 中国料理にも大分慣れてきた。秘訣は食べ過ぎないこと好きなものだけを少量食べること。

(次回は10月8日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。