中国・河北から東北の旅

☆9/1更新☆

第7回 「化学研究所」またの名を516部隊

 

731部隊の弟分516部隊

 午後は、みぞれまじりの雨の中を現地の見学に向かった。先ず最初は、ドラム缶の掘り出された工事現場で、今は地下駐車場になっている。ここは47台の駐車が可能で広い。土を運ぶのに470台分のトラックを使ったといったのも肯ける。

8.4事件の起こった第一現場、今は駐車場になっている

 二つ目に訪れた托管所は現場から車で1時間くらいのところにあった。荒野の中にポツンとあるように見えるが、実はすぐ近くに工場がみえる。ここにドラム缶と梱包したマスタードガスに汚染した土、70発の砲弾が置かれているはずである。

 70発の砲弾は、付近のあちこちで掘り出された砲弾を集めたものだ。敷地は厳重に囲いがしてあり内には入れない。

 

 三ヶ所目は、516部隊跡と見られる焼却所だ。ここでは、日本の毒ガス製造所である大久野島で作られて送られてきた毒ガスを、詰め替える作業が行われていたのではないかと見られているが詳しいことは分かっていない。

516部隊跡とみられるところ

 チチハル8.4事件は何故起こったのか。それは、戦時中ここに化学兵器の研究を専門の任務とする516部隊があったからである。

 関東軍第516部隊とは、1937年8月、化学兵器の研究と実験を任務としてチチハルに設けられた関東軍技術部化学兵器班で、1939年5月に化学部として独立したものである。さまざまの演習や訓練を繰り返し、中国側の記録によると、この部隊による10数回の実験で590人以上の死傷者を出したとされる。

 この部隊は、ハルピンにあった731部隊と共同して人体実験を繰り返し行なっていた。ふたつは「悪魔の兄弟部隊」といわれている。敗戦が明らかになり、「マルタ」を処理することが必要になった時に、731部隊をおとずれて、生きている「マルタ」を全員毒殺し、証拠隠滅に一役買った。

 みぞれの中を見学する間中、大きなカメラを担いだ人たちやメデイア関係者が数人同行して盛んにカメラを回しているなと思っていたら、夜の地元テレビのニュースで我々の活動が2分間ほど放映された。チチハルという地方都市では、心配されている遺棄毒ガスの日本調査団という存在は注目されているのだ。

 しっかりした団員がいるものでそれをチャンとビデオに収めることはできたのだが、国が異なるとなかなか綺麗な画像は再現できない。

 中華料理に辟易としていた折、夕食がシャブシャブと聞いてほっとした。牛と羊の肉の大ごちそう。油が少なくて日本食に似ていて、久しぶりに満足のいく食事となった。

初めてのご馳走、羊と牛のシャブシャブ

黒い大地を行く列車旅行

 第6日目(23日)、まだ冬のチチハルだが夜明けは早い。朝4時から空が白んで来る。日本ではありえないことだが、これは緯度の違いによるものか、中国標準時から大分外れているからか。その早い出発の朝、今日は列車でハルピンに向かうのだ。日本風に作られてそのまま残っているチチハル駅に別れを告げる。

日本の設計によるチチハル駅

 列車の旅はいいものだ。さすがに朝からビールというわけにはいかないが、ガラガラの指定席車両を歩き回れるし、本も読める。向かい合っての4人掛けの椅子の中央には小さなテーブルがあって書き物もできる。

 車中3時間半は退屈しない。車内販売のキーホルダーは1元だ。売り子さんの見せてくれる子供だましのおもちゃは、国境を越えて微笑ましい。足元のステンレス製の容器には湯が入っていて、おばさんが湯を継ぎ足しに来てくれる。寒い地方のサービスといったところか、それにしては暖房が効いていない。

チチハル―ハルピンの道中、列車内でくつろぐ団員たち

 泰康の駅を過ぎると、線路の両側に遊園地の首を振るキリンさんのような物が見えてきた。この小さな動く“やぐら”のようなものが、石油を掘り出しているのだという。白樺の植林の向こうに軒並み“やぐら”が動いている。

泰康の油田

 白樺の枯れ枝には鳥の巣がみえる。すぐに見つかりそうなところになぜ巣を作るのか。葉の茂っている間は見つかり難いのか。巣のそばにいる鳥を見つけて、カッコーだと誰かがいった。

車中からみえる樹林、右端に鳥の巣がみえる

 地図で見ると、731部隊の実験場のあった安達(アンダー)はこのあたりのはずだとシャッターを切る。ここでは、野外で杭に縛り付けた「マルタ」に上空の飛行機からペスト菌をばら撒いたのだった。

車中より安達(アンダー)の風景をカメラに収める

 黒い大地といわれた旧満州の土は確かに黒い。しかしこれは肥沃な土地を意味しているのではないそうだ。この辺境に、寒村の人たちが大勢、満蒙開拓団として移り住み、そして敗戦と同時にまた捨てられて、ソ連軍による襲撃や凍土の逃避行、それに残留孤児の悲劇を生んだ。そんな思いに浸っている間に、列車は松花江を渡ってハルピン駅に到着した。

 ハルピン駅構内で伊藤博文が朝鮮青年安重根に射殺されたのは1909年(明治42)、日韓併合の前年のことだ。柳条湖事件を溯ること22年、すでにこの頃より日本のアジア侵略は始まっており、朝鮮半島には不満が渦巻いていたのだ。暗殺場所はこの柱のあたりということだったが何の標識も見あたらない。

直ぐ先の柱の辺りが伊藤博文暗殺の場所というが何の標識もない(ハルピン駅)



(次回は9月10日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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