中国・河北から東北の旅
☆8/3更新☆

第5回 藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件
 

中学校で起きた13年前の悪夢

 
第4日目(21日)、朝からマイクロバスで藁城市に移動する。走ること約1時間、いつのまにか先導車が2台、ライトを点滅させながらついてくれていた。私たちはつい賓客のような気持ちになると同時に、日本の調査団への期待の大きいことを実感する。昨日話を聞いた藁城一中の見学が始まるのだ。

藁城市の車2台に先導される

 学校の応接室で、その当時現場にいた江小虎さん(藁城一中教諭)や武慶玉さん(藁城一中保衛科職員)の話を直接聞く。お二人は、以下のようなお話をされた。

藁城一中教職員、藁城市関係者などと座談(藁城一中会議室)

 1991年5月21日午後6時頃、武さんが同僚の自警科科長牛平方さんと校庭を巡回していると、数名の労働者にあわただしく呼び止められた。寄宿舎工事現場で溝を掘っているとき“異常現象”が起きたと言う。

 牛平方さんと一緒に急いで下りていくと、地下1.5メートルのところに鉄サビのついた砲弾が発掘されていた。表面の土を払ってみると、砲弾だとすぐにわかったが、知っている「六○砲弾」よりも長いように感じた。すぐに学校幹部に報告して、発掘を中止させ、藁城市政府の関係部門に報告した。

 翌日、公安局、武装部の指揮の下に再び砲弾を掘りはじめた。5月23日までに52発が掘り出された。保衛科に一旦保管し、さらに20メートル離れた倉庫に移した。「ガス弾」だと知らずに、素手で運搬したので、作業に携わった20数名が、めまい、息苦しさ、四肢の脱力感を訴え、手がかゆくなったり皮がむけたりする火傷の症状も出現した。

 生徒たちにも程度の違いはあれさまざまの心身症状が出現した。

事故当時の様子を語る武慶玉さん(藁城一中保衛科職員)

 6月20日、中国外交部と解放軍総参謀部および日本外務省と防衛庁など関連公務員と専門家の共同鑑定を経て、「ホスゲンガス弾」であることが明らかとなった。

 ホスゲンは、肺水腫をおこして窒息死させる毒ガスで、日本軍が「あを弾」と呼んでいた窒息剤だ。砲弾には「日本大阪軍工廠昭和15年製造」の文字が確認できた。全校は怒りに駆られたが、中日友好の問題も考えて、国の対応に任せることにした。

 憤激の気持ちは徐々におさまってきたが、恐怖心は長い間消し去ることが出来なかった。学校周辺の住民の聞き取り調査をして、ここの校舎のある場所がもと日本軍の訓練所であり、軍用物資の保管場所でもあったことを知った。これら52個の毒ガス弾は日本軍が遺棄したものに間違いないことを確信した。

掘り出された52個の毒ガス弾の写真、中には朽ちたものもまじっている

 1993年に朝日新聞の記者が取材に来訪、それから10年以上経ったが、いまだに日本から満足できる返事は来ていない。要求として、@日本軍隊が遺棄したガス弾の場所と数量を明らかにした資料がほしい。責任を持って掘り出すこと。砲弾を無くして、学生の安全を守りたい。A日本側はこの問題の解決案を早く出すように希望するとのことであった。

 藁城中学での発見はたまたまの偶然であった。1958年にもその場所から100メートル離れた井戸の中から同じような砲弾が掘り出されたことがあった。これ以外にも多くの砲弾が埋もれている可能性がある。生徒の安全を考えると早く何とか解決したいと言われた。


日本にも遺棄されている毒ガス

 団員からは、日本で発生しているよく似た現状についての報告があった。

 2003年4月茨城県神栖(かみす)町で、井戸水に染み込んだ有機ヒ素による中毒が起こっていることが明らかとなった。1歳7ヶ月の男児を含む数十人が健康被害に遭っている。

 地下水から分析されたのはジフェニルアルシン酸という自然界には存在しない物質で、毒ガスである「くしゃみ剤(嘔吐剤)」が地中で分解して、その成分が地下水を汚染したものと考えられた。これも日本軍の化学兵器から漏れ出した「あか」と呼ばれていた毒ガスによる被害だ。

 また、日本学術会議で遺棄化学兵器のシンポジウム開かれたが、日本政府は中国の被害者についてあまり問題にしていないこと、しかし、最近の日本の裁判(2003年9月29日東京地裁)で、中国の遺棄化学兵器の処理に国として責任のあることを認める画期的な判決が下されていることが報告された。中国の人たちとともに日本政府の責任ある態度を追及していきたいと決意を述べられた。

 藁城中学は中高一貫の重点校で、男女校舎別、ちょうど昼休みで、生徒たちはくつろいでいた。

昼休みに校庭の木陰で卓球に興じる生徒たち

 今、男子寄宿舎になっている建物の一階の階段下が52発中47発を発見したところである。

 この階段の向いの部屋に生徒たちが出入りしていたが、開いているドアから窺い知るところでは、ここの寮は8人部屋のようで二段ベッドが備え付けてある。それ以外には何もなくおそろしく殺風景だ。勉強部屋は他所に設けられていて、机や本棚はそこにあるのだろう。

 熱心で優秀な生徒が集まってくるらしいエリート校がつくった、一心不乱に勉学に精を出させる環境なのだろうが、日本では今時考えられない寄宿舎だ。善し悪しはともかく、私の知らない時代の旧制中学を想像して、一昔前に戻ったようななつかしさを覚えた。

藁城一中構内にある男子寄宿舎、入り口を入った左手あたりから毒ガス弾が発見された


男子寄宿舎の2階に上がる階段下の板の間、このあたりから47発の毒ガス弾が発見された

 毒ガス弾の運び込まれた倉庫のあったところは、今は花壇になっていて、紫色の植物が円状に植わっていた。

毒ガス弾の運び込まれた校内の倉庫跡地、今は花壇になっている


 さて、今日中にチチハルに着かなければならない。マイクロバスで北京空港へ急ぐ。夕食をとる時間がなさそうだから、久しぶりに私の口に合ったものを空港で買って食えるぞと期待していたが、何とか間に合うからと空港手前で途中停車して大衆食堂に案内される。

 まことに大衆的な大食堂だ。家族連れでごった返していて、庶民感覚が堪能できてうれしくなるようなひとときだった。御勧め品だという中国式ラーメンを団員全員注文する。大きな丼鉢の中に目の前で具を放りこんでかき混ぜて作るのだが、汁もなく熱くもなく冷麺でもなく、これは美味くなかった。早く本場のでない日本式ラーメンが食べたい。

北京空港近くの大衆食堂には家族連れがいっぱい


中国式ラーメン

 チチハル着は夜10時、暗くて良く見えないが、テラップを降り立った空港は小さくて地面には雑草が生えているようだ。それになんとここは4℃の気温、北京とは20度の差がある。泊まったホテルでは湯が出ない。これは困ったことになったと思いながら布団に潜り込む。

(次回は8月13日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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