教育・労働・生活の権利保障で先駆的業績―永井昌彦先生を偲ぶ(粟津浩一)
(03年2月号)
アイアイハウスの生みの親である永井昌彦先生が1月29日亡くなられた。享年79歳、ひとつ時代が終わってしまったとの思いです。
14年前のアイアイハウスは、千本北大路の北東にあった、古くて小さな借家で運営していました。
先生は府立盲学校退職後、アイアイハウスの初代運営委員長として、当時はまだ補助金も出ていないアイアイハウスの運営の基礎をつくられました。
お金は無いけれど、みんな夢と希望を大きく持って、将来の施設づくりなどの話をしていた時期の、運営委員会や施設作り父母の会の活動でした。
先生がいつも奥さまの手引きでアイアイハウスまで来られていたことが思い出されます。
■重複障害生徒の処遇
アイアイハウスの10周年記念誌の「アイアイハウス誕生への大きな一歩」と題された文章で、京都府立盲学校時代の、重度重複学級を設置する取り組みについて書かれています。
昭和44年頃のこと、盲学校の高等部に重度重複学級を設置することについて教職員の中にも賛否両論がありました。
「盲学校高等部は視覚障害のみの障害をもつ生徒のための学校だ」「重複生を教育する職員の体制や知識がない」「重複生の学校(養護学校)に行くのが適当だ」「どうせ将来は入所施設に行くのだから早いうちから施設に行った方がよい。そのことを親も願っている」などの考え方です。 2年以上にわたる学校全体での論議の末、設置場所は盲学校外ではありましたが「盲学校高等部別科」として設置することになりました。
その文章の最後は、「そして、それが後期中等教育の保障に加えて、労働権・生活権の保障につながるものであることを思えば、あのきびしかった日々の取り組みは、『アイアイハウス誕生への大きな一歩であった』といえるのではないだろうか」と結ばれています。
■今と将来見据え
重複学級設置の取り組みだけでも大変な中、視覚重複障害生の将来の課題までも見据えてこられ、退職後には実践として施設づくりや運営委員長の大役を担ってこられました。その当時の様々な意見は、今でも視覚重複障害者の高等部卒業後の進路や生活の問題にもつながっている課題でもあります。
私たちは、先生の取り組まれた実践を学びなおす事が、今改めて必要だと痛感しています。
永井昌彦先生、長い間、本当にありがとうございました。
(アイアイハウス所長)
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