編集長の毒吐録
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☆2020/3/11更新☆

【9年前の東北の大地震・大津波・原発爆発の犠牲に心を寄せて】 大江健三郎は、『知の巨匠 加藤周一』(菅野昭正・編、岩波書店)に寄せた「いま『日本文学史序説』を再読する」という文章で、次のように述べた(これは2010年9月の世田谷文学館での講演が元になっている)。

<彼は、原爆が落ちたすぐ後に広島に行って調査をした血液学の専門家・・広島で落とされたあの核爆弾と、原子力発電所で発電をしているあの核物質の使い方も同じだと示すのです。「核爆弾も原子力発電も、核分裂の連鎖反応から生じる。連鎖反応が加速されれば爆発して爆弾となり、原子炉のなかで制御されて臨界状態が続けば発電所の熱源となる」「比喩的にいえば原子爆弾とは制御機構の故障した発電所のようなものである。核兵器と原子力発電は、一方が『戦争』に属し、他方が『平和』に属するという意味では、限りなく遠い」。・・「しかしどちらも核分裂の結果であるという意味では、きわめて近い。・・」・・「もし清少納言が今日の日本に生きていたら、『遠くて近きもの』として原子爆弾と原子力発電所を挙げるだろう」と加藤さんはいう。

「核戦争の起こる確率は小さいが、おこれば巨大な災害をもたらす。原子力発電所に大きな事故のおこる確率は小さいがゼロではなく、もしおこればその災害の規模は予測し難い。一方で核兵器の体系に反対すれば、他方で原子力発電政策の見直しを検討するのが当然ではなかろうか。

東海村に事故がおこれば、『ヒロシマ』を思いおこすのが当然」というのがその正確無比な結論です。・・広島と同じようなことが、いまの日本の各原子力発電所で起り得る。しかもその規模は、広島核爆発を大規模に超えるものである。そうなる前に私たちは、核兵器と原子力発電所は「近うてん遠きもの」ではない、「遠くて近きもの」だと考えなくてはならない>。
 
この文章に接したとき、僕は、清少納言の言説を核に託して述べた加藤にも、この発言を探し出して加藤の姿を紹介した大江の慧眼にも驚いた。

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