|
<<前のページ
☆2020/4/4更新☆
4月5日の週刊新聞『京都民報』の「論壇・オピ二オン」欄は、“”剣法“で語った憲法の極意”を立て、“「市民まつり」のステージで憲法やまちづくりについて語り合う井上ひさしさん(右)と吉郎さん(99年5月、キャッスルランド)のキャプション”で写真を添えて、拙稿を載せている。以下はその全文。 出会いは京都の書店のサイン会 4月9日は、作家・井上ひさしの没後10年にあたる。/「ガバチョ」と呼ばれた友人がいたこともあって、「ひょっこりひょうたん島」の話と歌、登場人物(人形)の声が印象に残っている。『吉里吉里人』で、彼の豊かでとらわれることのない発想に驚嘆した。 以来、ひさしの著作を、小説に限らないで、日本語論にもコメ論にも目を通し続けた。彼は、あることを書くことによって、その問題の専門家になった。コメが日本の農業の大切な柱であるとの指摘などはその最たるもの、その作風は戯曲を大量に書いてからも変わることがなかった。 僕が、井上ひさしさんに初めて会ったのは99年のことだった。本屋さんに、ひさしさんのサインセールがあるとの予告があった。京都の繁華街・三条河原町を下がったところにあった大きな本屋さん(駸々堂)だった。翌年2月に京都市長選挙が予定されていて、僕はその選挙に立候補を表明していた。選挙を盛り上げようと、伏見桃山城で大きなフェスティバルが予定されていたが、メーンとなる集会にひさしさんを招こうということになった。 僕は、紹介者なしに、ひとりで、サインセールの会場に向かった。/ひさしさんは、メッセージを1冊1冊に描き込み、相手の姓名を記し、年月日と自分の名前を、持参した万年筆で書いていた。字が、流れるように紡ぎだされる手元を、僕はじっと見ていたように思う。本にサインするごとに、自分の名前が彫ってあるハンコを押している井上さんの姿が印象的だった。 同姓が縁で始まる付き合い サインを終えたひさしさんは、書店の近くの喫茶店に入った。僕は、喫茶店で休みをとっていたひさしさん近づいて、自分の姓名を名乗り用件を述べた。日程さえ合えば、出てもいいという返事だった。作家と握手し、激励も受けて、店を後にした。旗幟鮮明、政治的立場を明らかにすることは勇気のいることを、サラリとやってのけるひさしさんに感謝の言葉もなかった。 伏見桃山城の広場でひさしさんは、僕を相手に語り、参加者に京都市長選挙の大切さを述べてくれた。「突然、井上ですがと声を掛けられて、それで断れなくなったのです」とひさしさんは僕との出会いを述べ、さりげなく売り込んでくれた。/ 野球のこと、おかあさんやおとうさんのこと、啄木や賢治のことなど、小説などにも触れたが、ひさしさんは戯曲も抜群の作品を残している。『父と暮らせば』で彼は、広島原爆を、幽霊を生み出すことによって描きだしている。原爆が普通の暮らしを一変させる。登場する人は少ないが、人類的課題に見事に接近している。 貧相な京都の図書館に驚く ひさしさんの京都入りの日程に合わせて集会を持ったことがある。彼に、伊能忠敬(『四千万歩の男』)を主人公にした作品があって、高齢者の人生を語ってもらおうという趣向だった。彼が車から降りてくるのを待って、「これが京都市の中央図書館です」と僕が言ったときの、驚いた様子が忘れられない。あまりにも貧弱だったからだ。入院中に『座談会 昭和文学史』(全6巻、集英社)を読んだ。小森陽一と井上ひさしの二人が、数十人の論客と縦横に語るのを愉しんだ。 『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫)で、井上ひさしは「プロローグ」で、「憲法の前に剣法の話をちょっと」と書き、江戸という泰平の時代に、「剣を抜かない」のが最高の剣法と言われていた。いかにも井上ひさしらしい”憲法論”に感心した(共著者は樋口陽一)。戦争を禁止する条項を憲法に入れたことを、「剣法」を語って「憲法」を語る手法に学んだ。
「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」を実行した人だった。
Smart Renewal History by The Room
|