編集長の毒吐録
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☆2020/4/12更新☆

【今日4月12日、僕らは≪井上ひさし没後10年 講演と映画でのぞく「ひさしワールド」≫を開くべく準備してきたが、残念ながら中止した。謝罪します】 作家で劇作家の井上ひさしさんが2010年4月9日に亡くなられた。75歳。次兄と生まれたのが同年ということもあって、親しみを感じてきた創作家だった。「ガバチョ」と呼ばれていた友人がいたことがいて、「ひょっこりひょうたん島」の話と歌、登場人物(人形)の声が印象に残っている。『吉里吉里人』で、彼の豊かでとらわれることのない発想に驚嘆した。

以来、井上さんの作品を、小説に限らないで、日本語論にもコメ論にも目を通し続けた。彼は、あることを書くことによって、その問題の専門家になった。コメが日本の農業の大切な柱であるとの指摘などはその最たるもの、その作風は戯曲を大量に書いてからも変わることがなかった。

僕が、井上さんに初めて会ったのは99年初春のことだった。本屋さんに、ひさしさんのサインセールがあるとの予告があった。京都の繁華街・三条河原町を下がったところにあった大きな本屋さんだった。翌年2月に京都市長選挙が予定されていて、僕はその選挙に立候補を予定していた。

その選挙を盛り上げようと、伏見桃山城で大きなフェスティバルが予定されていたが、メインとなる集会にひさしさんを招こうということになった。僕は、紹介する人もなしに、ひとりで、予告されていたサインセールの会場に向かった。多くの人が、彼のサインを求めて並んでいた。

ひさしさんは、メッセージを1冊1冊に描き込み、相手の姓名を記し、年月日と自分の名前を、持参した万年筆で書いていた。字が、流れるように紡ぎだされる手元を、僕はじっと見ていたように思う。本にサインするごとに、自分の名前が彫ってあるハンコを押している井上さんの姿が印象的だった。

サインを終えたひさしさんは、書店の近くの喫茶店に入った。僕は、書店の人や出版社の人に断わりをいれて、喫茶店で休みをとっていた井上さん近づいて、自分を名乗り、用件を述べた。詳しいやり取りは忘れたが、日程さえ合えばその場に出てもいいという返事だった。

決まった曜日に自分の日程管理をしている人が家に来るので、その人と打ち合わせしてほしいということだった。「やったー!」、僕は心の中で快哉を叫んでいた。作家と握手をまじわし、激励も受けて、店を後にした。旗幟鮮明、政治的立場を明らかにすることは勇気のいること。そのことを、サラリとやって()のける井上さんに感謝の言葉もなかった。

伏見桃山城の野外の広場(キャッスルランド)でひさしさんは、僕を相手に語り、参加者に京都市長選挙の大切さを述べてくれた。「突然、井上ですがと声を掛けられて、それで断れなくなったのです」と井上ひさしさんはボク(井上吉郎)との出会いを述べ、ボクの姓をさりげなく売り込んでくれた。

野球のこと、おかあさんやおとうさんのこと、啄木や賢治のことなど、小説などにも触れたが、ひさしさんは戯曲も抜群の作品を残している。『父と暮らせば』で彼は、広島原爆を、幽霊を生み出すことによって描きだしている。原爆が普通の暮らしを一変させる。登場する人は少ないが、人類的課題に見事に接近している。

ひさしさんの京都入りの日程に合わせて集会を持ったことがある。彼に、伊能忠敬(『四千万歩の男』)を主人公にした作品があって、高齢者の人生を語ってもらおうという趣向だった。ひさしさんが車から降りてくるのを待って、「これが京都市の中央図書館です」と僕が言ったときの、驚いた様子が忘れられない。あまりにも貧弱だったからだ。

ひさしさんはペシャワール会の古くからのサポーターでもあった。ペシャワール会の中村哲さんが日本に帰っているのにあわせて、講演会が開かれ、ひさしさんも演壇に立った。慇懃無礼な主催者を揶揄しながら、国際貢献の仕方をひさしさんは鋭く問うのだった。

井上さんは、以前からイタリア、中でもボローニャの研究者でもあった。彼には、雑誌「すばる」に連載していたボローニャに関する文章があった(のちに『ボローニャ紀行』としてまとめられた)。社会的協同組合にも注目したこの文章で、ひさしさんはイタリア社会に別の光をあてた。

この町が、ヨーロッパでも古いボローニャ大学があること、戦後この町の「赤い伝統」もあって中央政府からのけものにされたこと、路上生活者の雑誌販売や芝居にのめり込む様子などが連載で書かれている。ボローニャ郊外の知的障害者が働く農場やレストランも連載で紹介されていた。

そのレストランの親玉(サンドリさん)を日本に招いて、鹿児島、京都、東北地方、北海道などで経験を語ってもらうことになった。ひさしさんに声をかけると、発足会にも顔を出してくれたし、イタリアからの客人も接待してくれたし、特別の援助もしてくれた。「文化」による町づくりにかける作家の真髄を見た思いがした。

入院しているときよく読んだのは『座談会 昭和文学史』(全6巻、集英社)だった。小森陽一さんと井上ひさしさんの二人が、数十人の論客と縦横に語るのを愉しませてもらった。

3月に『「井上ひさし」を読む 人生を肯定するまなざし』 (今村忠純・島村輝・大江健三郎・辻井喬・永井愛・平田オリザ/著、小森陽一・成田龍一/編著、集英社新書)が出た。没後10年を迎えた井上ひさしの作品を真ん中に置いての討論の1冊だ。追悼に相応しい企画。収録されているのは、井上ひさしを交えた討論(特別付録〈座談会「二一世紀の多喜二さんへ」−「組曲虐殺」と「小林多喜二」、井上ひさし最後の座談会〉。井上ひさしとノーマ・フィードが出席している)と没後2年以内の四編と2019年の一編。また、4月には、『井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション(全3冊)』の第1回として『社会とことば』が出版される。

「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」を身を持って実行した人だった。

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