編集長の毒吐録
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☆2020/9/3更新☆

<75年目の9月3日(1945年9月3日、サイード・オマールさんは、京大病院で死んだ。“原爆死”だった)に寄せて> 75年前の1945年9月3日、オマールさん(1926〜45年)は京大病院で息を引き取った。彼は43年来日、44年には広島文理科大学に属し、45年8月6日広島で被爆、東京へ行くべしで乗車した国鉄車中で具合が悪くなり、8月27日京都で下車、京大病院に入院した。当初、南禅寺に葬られたオマールさんは、61年の命日以降、京都市左京区の園光寺の墓地に移された。

マレー出身の青年の被爆を解く鍵は南方特別留学生制度にあった。この制度は43年2月、南方特別留学生育成事業という政令で制定された。「我国ニ留学セシメ・・我学芸及ビ実務ヲ習得セシムルト共ニ我国民性ノ真髄ニ触レシメ、以テ帰国後ハ原住民ヲ率ヒ、大東亜共栄圏建設ニ協力邁進スベキ人材ヲ育成スル」と事業目的を謳っている。「大東亜の人質」だった。/被爆時、広島の南方特別留学生は9人、オマールさんもその一人だ。

入院したオマールさんの担当は濱島義博医師(1923〜2013年)だった。濱島医師ができたのは輸血、血液型が一緒の医師は、自分の血液をオマールさんに輸血した。オマールさんは、濱島さんに「兄弟になった」と言ったという。

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