編集長の毒吐録
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☆2020/9/17更新☆

<75年目の9月17日(1945年9月17日、花谷暉一さんは、広島で死んだ。枕崎台風が彼の宿舎を押し流した)に寄せて> 京都大学の正門を入って右側に、木造2階建ての「花谷会館」がある。京都大学生協の本部として長年使われて来たこの建物は、今では耐震を理由に使われなくなった。この建物は、広島原爆の被害を教えてくれるモニュメントである。
 
1945年9月17日、広島を枕崎台風が襲い、同夜10時30分頃、山津波は一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ、山陽本線を越えて海中に押し流した。大野陸軍病院に本拠を置いて調査にあたっていた調査班員11人を含む人が台風被害にあった。死者・行方不明者2000人を超える惨事だったという。被害者の一人が京都大理学部物理学科の大学院学生・花谷暉一(てるいち)だ。この調査団は「原爆災害綜合研究調査班」と言い、京都帝大が中国軍管区司令部の要請を受けて組織、医学部と理学部の教官や学生などが、9月3日からこの病院に本拠を置き診療・研究にあたっていた。彼の死を悼んで、遺族が大学に寄贈したお金をもとに花谷会館が建てられた。広島には「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来」と書かれた碑がある。原爆の残酷、調査団と花谷暉一の無念を建物は伝える。

1996年、加藤周一と共に、京都大学をおとずれたことがある。僕は加藤に、花谷会館のいわれを説明した。加藤は僕の説明を無言で聞きながら、自分の世界に入ったように、思いに浸るように寡黙になった。彼は、花谷暉一の死から1ヶ月にもならない時期に、広島に足を踏み入れているのだ。この年10月 東亰大学医学部と米軍医団共同の「原子爆弾影響日米合同調査団」が広島に派遣された。日本側の一番若いメンバーとして加藤周一がくわわった(アメリカ側の一番若いメンバーはL中尉ことフィリップ・ロッジ中尉だった)。彼は調査団の一員として広島に約2ヶ月滞在した。

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