|
<<前のページ
☆2020/12/2更新☆
≪二世茂山千之丞の没後10年(2020年12月4日)に寄せて≫【「伝統」の世界に生きた「革新」の人<全3回>】
2010年12月4日、茂山千之丞さんが亡くなられた。87歳だった。観客として、舞台を愉しみました。演出家としての才能の一端にも触れることができました。社会に向かって、まっとうな物言いを続け、見識を示した姿を見せてもらいました。仕事を離れて、個人としての人柄にふれることもできました。人生の先輩として、恩義を感じています。
千之丞がラジオに出演するとか、新劇の舞台に立つとか、武智鉄二の演出に従うなどといったことは、「伝統」に弓を引くことを意味したのです。兄の千作とともに「業界」から追放されそうになったこともありました。狂言という「伝統芸」の世界に新しい風をもたらしたのは、千之丞の才能と胆力があったればこそです。狂言役者としての千之丞は、考えぬかれた演技、別の言葉でいえば理知的ともいうべき演技を繰り広げました。たとえば、よく知られている曲目である「棒縛り」での軽妙な演技、「濯ぎ川」でのあたかも水の音が聞こえるようなしぐさなど、計算しつくされた笑いが楽しかった記憶がよみがえります。
僕らは、その一端を『狂言役者―ひねくれ半代記』(岩波新書、1987年)に見ることができます。ある意味では、千之丞は狂言の「主流」を歩まなかったかもしれません。歩みは「ひねくれ」ていたかもしれません。しかしながら、大きな流れで捉えれば、時間軸を長くとって見れば、狂言世界に、いまでは当たり前の「作風」を持ち込み、今日の隆盛をもたらしたのではないでしょうか。「お豆腐狂言」とも呼びならわされる茂山千五郎家を創り上げたことにつながります。
狂言役者・茂山千之丞(1923年〜2010)は、“シラクさんは罪なお人や”と題する文章を1998年7月16日の『朝日新聞』論壇欄に寄せ、京都市が進める「ポン・デ・ザール橋計画」に異を唱え、反対を表明しました。96年から問題になっていたことに、フランス・パリのセーヌ河にかかる「ポン・デ・ザール」もどき橋を、鴨川の三条と四条の間に作ろうという計画がありました。<この計画に反対する事由は、景観論によるだけではない。この場所に橋そのものを架けることの可否が十分に論議されていない状況の中で、シラク大統領の提案をかさに着、フランスとの国際親善をお題目にして、やみくもにこの計画が推進されている><桝本市長の奔馬のような独走が始まった>。「狂言役者」の文章がとどめを刺して計画は白紙撤回され、鴨川の大景観は守られました。「伝統」の世界からの異議申し立てが流れを変えたのです。
千之丞は映画『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』に友情出演してくれた事があります 。千之丞が今様をうたいあげるシーンが今も印象に残ります。『朝日新聞』の「天声人語」(95年5月28日)は、<狂言役者の茂山千之丞さん、京都市民などが作った敗戦直後の浮島丸事件の映画に無料で出演。「埋没している事実を事実として残すのは戦中派の人間の義務なのです。・・事なかれでなく事あれ主義。行動を起こさないと世間に伝わりません>と言っています。
98年、京都の四条烏丸にあった金剛能楽堂で(現在、京都御苑西に移転)、「反核・平和のための能と狂言のつどい」を開いたことがあります。畳が敷いてある客席にも人が入った。500人はいたでしょうか。観世栄夫が能を舞い、茂山千之丞らが狂言を演じました。このときの能は多田富雄さんの作品『望恨歌』(ぼうこんか)でした。『望恨歌』は、朝鮮半島から日本列島に強制的につれてこられた人の恨みを描いています。観世栄夫がつける面がくるくる変わるのを僕は見つめていました。異郷につれてこられた人のやるせなさが伝わる名演だったと今も思います。
Smart Renewal History by The Room
|