編集長の毒吐録
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☆2021/3/4更新☆


【『「連れ合い」と「相方」―「介助される側」と「介助する側」』(井上吉郎・池添素、ウインかもがわ<〒602-8119 京都市上京区出水通堀川西入亀屋町 321 TEL075-432-3455  FAX075-882-8053 メール saito@win-k.co.jp>、1200円+税)普及の記⓲を読んでの感想です。

<井上吉郎・池添素両氏は、日本の民法で定められた婚姻関係にある夫婦だ。わが国の夫婦は、互いを男は女を「妻」「女房」「家内」と呼び、女は男を「夫」「亭主」「主人」と呼ぶ。それぞれ保守(リベラル)的などという観念はあるものの、互いがそれを納得し、人格を認め合っていれば第三者がとかくいうことでもない。
夫婦とは、成人に至るまでの家族と異質の新しい家族を生成するための基礎的所在となる。だから、婚姻関係を結ぶにあたっては時間をかけて選択し、その相手との合意が絶対的条件だ。それは、自身の意見を明確に表明することなどの同等な権利が相互にあることを意味する。当然だ。しかし、その選択を吟味して行ったはずの相手さえも何らかの理由からその関係を解消せざるを得ないこともしばしばあるが……。
と考えると、「連れ合い」「相方」と呼び合う夫婦って何だろう。古風な演歌の詞を借りれば互いの人生の“道連れ”となるから「連れ合い」となり、リベラルな哲学的表現をすれば互いの人生を支え、向上させ、時に批判・是正させる身近な存在だから「相方」となる。

両氏が夫婦と呼ばれるようになったのは、一般的な男女が婚姻関係を結ぶ時期から考えてかなり遅い。その決して長くはない人生の“道連れ”として選んだ両者はそれぞれの「連れ合い」であり、互いの社会的存在を認め合うことによって、互いにサポートし、互いにインセンティブを与えあう両者はそれぞれの「相方」なのだろう。

井上吉郎・池添素両氏が寄り添いながら微笑む表紙のイラスト――。それは、互いが相手をかけがえのない「連れ合い」と「相方」だということを物語っている>

<つい最近まで、わが国では「介護される側」「介護する側」という両者は多くの人たちから認知されていなかったように思う。なぜなら、障害や高齢による「介護される側」の生活はその人の周囲の私的な領域であり、家族などの「介護する側」は自らが「介護する側」だということをあまり表面的に現すことは少なかったから……。その結果、介護を媒介にしての悲劇が後を絶たなかったのはこの現象と何らかの関係があるのは否めない。

「介護される側」と「介護する側」の両者が社会へと登場した契機は、介護保険制度の導入による介護ビジネスがわが国に登場してからだ。(それ以降に記された)私の手元の『社会福祉援助技術論』の書によれば、「両者は“対等の関係”」にあり、「後者(介護する側)は前者(介護される側)の意思を最大限に尊重する必要がある」と記される。<技術論>としては間違いない。しかし、それは、あくまでも<技術>であって、「介護される側」が自身の身体が思い通りに動かない、「介護される」ことへの“もどかしさ”や“抵抗”についての論及がいささか欠落している。「介護される側」も「介護する側」も同じ人間だ。両者同士の互いの【モラハラ】によって相手を傷つけることもなきにしもあらず。その傷は「介護する側」の無償的なモノ、「介護される側」の自省と謝意だけでは決して癒されることはない。「介護される側」に様々な<援助>が定義されるならば、「介護する側」にも専門的見地からの<援助>の方策が構築されるべきだろう。しかし、それは<援助>であって<技術>ではない。

「介護される側」と「介護する側」――。この時代に生きる私たちに様々なものを投げかけてくる。本書、いや井上吉郎・池添素両氏は、それにいかに向き合っていくべきかを示唆してくれている>

Smart Renewal History by The Room

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