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☆2021/3/31更新☆
月刊誌『ねっとわーく京都』が、2021年3月号で終刊になります。京都市職労の肝入りで1987年に創刊されたこの雑誌は、「よき京都を50年、100年先にも残す」とし、歪んだ同和行政を告発し京都の景観を守り発展の論陣を張るなど、京都になくてはならない出版物として輝いてきました。35年間にわたり382冊を出し続けました。
僕も何回か寄稿しましたが、印象に残る論考に、1990年11月号に収録された「川端道喜さん 何よりもあなたは… 井上吉郎」と題する告別式で式辞があります。31年前、45歳の時のものです。 井上吉郎
≪私は、川端道喜さんの告別式で、追悼の辞を述べた。以下は、そのときのものだ。 ◇ 謹んで川端道喜先生の御霊前に捧げます。 道喜さん、あなたは何よりも御粽司十五代川端道喜であり、一級の和菓子職人でありました。と同時に、あなたは、武の人であり、文の人でありました。またあなたは知の人であり、情の人でありました。さらにあなたは、保守の人であり、革新の人でありました。そして何よりあなたは、この世のすべてに対して、貪欲といっていい興味を示す、博学多才の人でありました。 そのような道喜さんのことですから、とてもその全体像を語ることはできません。私は、あなたが発起し、あなた自身が命名し、あなた自身が身をもってリードしてこられた「21京を創る懇話会」にまつわる事柄について申し述べ、あなたへのお礼の言葉とし、お訣れの言葉といたします。 三年前の夏のことでした。私たちはあなたの著書『酒帘(れん)』の出版を機会に、川端道喜創業四百五十年をお祝いしようと考え、記念の式の準備を始めました。そのための打ち合わせを終え、近くの店に場所を移した私たちの話題は、堕落した京都のまち現状にむかいました。古都税問題と金権亡者による古都破壊に話が及んだときでした。私はあなたに「道喜さん、再来年の京都市長選挙に勝負を賭けませんか。そのために、道喜さん、先生が候補者になってくれませんか」と申しあげました。あなたはほんの数秒、考えたあと「よろしいやろ、一緒にやりましょ」と口を開いてくださいました。それから一年、必要な準備をすすめる私たちを待っていたのは、「川端先生のお身体を考えれば、それは無謀なことです」とのドクターストップでありました。 あなたは候補者として歴史都市・京都を守るたたかいをすすめることを断念せざるを得なくなった私たちは、今度はあなたを応援団長にして、昨年夏の京都市長選挙をむかえることになりました。そしてあなたは、病魔が蝕む身体にムチ打って、あの歴史的な選挙戦をリードされました。「二十一世紀に、孫子の代に、百年先、二百年先の人びとに誇れる京都を残せ」とあなたの訴えは、人びとの心を熱く燃えたぎらせたのでありました。 またあなたはこの間、出版社と私たちの願いに応えて、『和菓子の京都』の完成のために力を尽くされました。推敲作業は病院でも続きましたが、それは「私は、この長年にわたって築きあげた京都文化を、風流韻事を知らずに目先のことだけで勝手にいじられては困ると心底思っている」との思いに支えられてのお仕事でした。 あなたの最後のお仕事は、間もなく週刊紙「京都民報」の紙上を飾ることになる、加藤周一氏との対談でした。現代日本を代表する知性と現代京都を代表する良識との、数時間に及んだ対談で、あなたは、京都のまちへの深い愛着を吐露されていました。 道喜さん、そろそろ最後のお訣れをしなければならないようです。孫の安里人ちゃんのことを語るときにお見せになった、やさしい表情を思い浮かべながら、申し上げます。 川端道喜先生、いまは安らかにお眠りください。 一九九〇年七月三十一日 友人代表 井上 吉郎
昭和から平成に移る前後の何年間かを、後世の人びとは、京都の歴史にとって極めて重要な転換点であったと語ることになろうが、道喜さんは、その舞台の主役の一人として登場することになるだろう。京都のことを、深く、長い距離でとらえ、大胆に、鋭く行動した人として、私たちの記憶に残り続けるにちがいない。 (21京を創る懇話会事務局長・京都府生協連専務理事)≫
Smart Renewal History by The Room
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