編集長の毒吐録
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☆2021/4/22更新☆

等持院は自宅近くにある臨済宗天龍寺派の寺院です。このお寺に作家の水上勉(1919年〜2004、みずかみつとむ、『雁の寺』、『五番町夕霧楼』、『越前竹人形』、『飢餓海峡』、『一休』、『金閣炎上』などの作品を残しました)がすまいしていたことがあります。5人兄弟の次男として福井に生を受けた彼は、9歳(一説には10歳)の時、京都の相国寺(しようこくじ)の塔頭、瑞春院に小僧として出されたものの、厳しさに耐えかねて出奔し、その後、等持院に移り僧名承弁に改名しました。院の蔵書である小説本を貪り読み文学への関心を深めたと言います。またここには東亜キネマの撮影所があって、撮影の手伝いもしたそうです。


<寺はずいぶん荒廃していたが、現今よりも風格はあった。まず、山門から中門にいたるアプローチが美しかった。両側の土塀から巨松が枝をさしかわし、なだらかな坂道が、瓦ぶきの中門に吸われて、その門も四木柱が虫境いもあらわで、かたむいていた。この中門は、現在は取りはらわれて、コソクリートの塀と門になり、途中の坂は、土塀が消え、人家が建っている。したがって、坂は三分の二ぐらいけずられて、ラチもないただの入口になった。……したがって、往時の幽邃さは失せ、ただの街なかの寺院である。……こんなように書いてくると、等持院ほど、ここ二十年間のうちに変り果てた寺はめずらしい。同じ衣笠山をめぐってある金閣寺、龍安寺等は、昔どおりの敷地を守って、名残りを懸命にとどめているのに、この寺だけは、周囲がむざんといえるはど、大学、人家に迫られ、風格を失ったのである。やはり、足利尊氏の菩提寺ということで、人が省みないこともあって、経営難に拍車をかけ、どこの寺でもそうだが、屋敷の切り売りをやった結果というしかない。…>と水上は述懐します。

京都盆地の西北に在るこのお寺は、足利尊氏(1358年死去)の墓所となり、尊氏の戒名をとって名称を「等持院」と改称し(それまでは北等持院)、足利将軍家の菩提寺となりました。この尊氏の墓所であることが、「南北朝問題」とも絡んで、このお寺に複雑な影響をもたらします。

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