編集長の毒吐録
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☆2019/5/1更新☆

<「令和最初の日」に>【近代の京都を創った12人】❺斎藤雷太郎と『土曜日』≪➊四方文吉(しかたぶんきち)と建物疎開❷堀川弘道と「映画の都」❸ヴォーリズと洋風の近代建築❹渡辺白泉と『京大俳句』の弾圧≫

15年戦争下の京都で刊行された隔週発行のタブロイド新聞『土曜日』(最大8000部、平均4,000部刊行) は、1936年7月4日、斎藤雷太郎が出していたミニコミ紙『京都スタヂオ通信』を受継ぐ形で創刊された(斎藤は松竹下加茂撮影所の大部屋俳優で、創刊号は『スタヂオ通信』の号数を引き継ぎ第12号となっている)。

しかし、それは、中井正一、能勢克男、斎藤雷太郎らが治安維持法違反容疑で検挙されて、37年 11月5日発行の第44号で廃刊に追い込まれ、翌年にかけて関係者全員が検挙された(京都人民戦線事件)。僕は、『デルタからの出発 生協運動の先駆者 能勢克男』(京都生活協同組合編、かもがわ出版、1989年)の出版を準備する中で、今出川千本西入る北側の斎藤の自宅を訪ね、さまざまな証言を得たことがある。
先行して、反ファシズムの文化運動のメディアとして雑誌『世界文化』(35年創刊)を刊行していた中井正一、新村猛、久野収らは、フランス人民戦線の機関紙『Vendredi(金曜日)』に倣う形で、新聞の刊行を企画し、それが『土曜日』になった。
 
斎藤は、「小学四年を中途退学の私が、新聞発行を計画するのは、非常に冒険と思いますが、名文的なものや、学問的なものは、それぞれの専門の先生の書いたものを読めばいいので、字や文章はまずくとも、お互いの気持ちや考え方をかざらないで、ありのままを書いて発表する、要するに読者の書く新聞を考えたのです」(「善意を組織するために」)と言っている。
 
「日中戦争」の最中の『土曜日』は、反ファシズムの「人民戦線」であり、民衆とインテリゲンチャの「共闘」だった。

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