寺岡よしえとの散歩。
それは、僕の心の内にクッキリとした形をなさない妙にザラザラとして、身体に馴染まない感情を流れさせ始めた。
その時の僕の気持ちの状態は一体何なのかをハッキリと五感で確かめられる事は出来なかったし、僕を誘った寺岡よしえの気持ちも想像さえする事が出来なかったが、それは明確に普通の男女のデートと呼べるものであった。
看護婦と患者が恋愛関係になってはダメだという病院の規則などはないであろうが、かいがいしく施される看護のため期せずして擬似的な抜き差しならぬ恋情が患者の方に一方的に生まれ、その気持ちをその人に拒絶され傷ついたりする、そんな事は全国の精神病院で、いや全世界の病院においても日常的なものであったであろう。
でも果たして、僕に対する寺岡よしえの気持ちはどんなものであっただろうか?
「田島さん、いやユウちゃん、散歩とかよくしているの?」
僕のモワッとして正体不明の複雑な感情など一切かまう様子を見せることなく、ごく自然に聞いてきた。
「うん、ほら病院って時間がありすぎて何をするという事もないから、本を読んだり、外をなんの目的もなく歩いてみたりしている」
「ユウちゃん。自分の病名って知ってる?」
「え?」
寺岡よしえの質問は唐突過ぎた。
前後の脈絡もなにもなく、聞くのは当然というニュアンスを含み、言葉の抑揚にもなんの装飾も迷いもないストレートなものだった。
それは、寺岡よしえが精神疾患についてなんの偏見も、又それを罹病した人に対してもなんの差別もしない人たちの一人だということを証明するものであったかも知れない。
勿論、精神科の看護婦であったからそんなこと当たり前だと思われるかも知れないが、精神科の看護婦であれば誰も偏見もなく差別的な態度も一切とらないという事こそ偏見で誤った認識である―そんなことを僕は入院と治療の体験から嫌になるほど、うんそう、こころがギシギシと痛く感じるほど学んできた。
だから、寺岡よしえの僕に対する態度は特筆出来るものであって、自分を上位の位置から、そう、上から僕を見るものではなく、同じ視線と人間としての同等、対等な立場で接していたと言えるものであった。
僕は答えられなかった。
何度目かの診察の時に、主治医の藤木医師は「あなたの病気は何というふうに決められない……分裂病的傾向も示しているし、離人症のような気もする。いまは抗不安剤と精神安定剤を処方しているけど、診た感じではどこも悪いところはないような気もする。そう、精神も不思議に安定しているし……もう少し様子を見ていく必要があると思っています」と言っていた。
僕の病気は何かわからないということだ。
とんでもなく悪いかも知れない。幻聴だって、妄想だってあったんだから……今は何故かそれはどこかに消えてしまったけど、いつ何時に又それが僕を襲うとも限らない。僕が一番気にしていることは、いつ退院出来るのかということだ。
果たして、社会で普通に生活出来るのかということであった。
だから、精神病に対する知識などなにも持っていないし、自分の病名がわからないということがとても不安であった。
僕はこの先一体どうなっていくのかということがとてつもなく不安であった。幸せなどということから完全に見放されてしまう可能性だってあるし、どう生きていけばいいのかなどの気持ちを整理する糸口さえ見出せなかったというのが現実であった。
僕は精神病院で、自分のことを何かの形で再発見しなければ、もうどこにも行けないと思っていたし、現にこれからの道を進んでいく羅針盤のようなものそれは価値観などと言い換えてもいいのだが、そういうものを跡形もなく失ってしまっていた……
でも、とにかく医師を信頼するしかないのだ。
その当時、僕は自分の手でこの病気と闘う手段など何も持っていなかったのだから。
どうしていけばいいのかなどなにも判断出来なかったのだから。
僕は防御、闘いに対しては完全に裸であった。
僕が寺岡よしえの質問にはなにも答えられないのを見て、彼女は少し困ってしまったような表情を浮かべたが、それは僕が初めて見るものであり、彼女のこころの拡がりであるとともに柔らかい優しさを示している気がした。
「ごめんね。嫌なことを聞いてしまったようで。私、時々人のこころの中にどんどん入ってしまうようなとこがあるから。でも、私は看護婦だから、主治医の治療計画にそって指示されている事項をしていればいいのだけど、どういうわけかユウちゃんの事が気になって……本当にごめんなさい……」
僕たちはあてもなく、どこに向かうということもなく歩いていたのだが、寺岡よしえはブルーのスニーカーの靴先に視線を置きながらそう言った。本当にすまなそうであった。
その表情は、看護婦であるというより普通の女性に過ぎなかった。
僕は思わず、寺岡よしえの赤く細いチェックのシャツに包まれた肩に手を置き、僕の方に彼女の身体を寄せ付け、激しく抱きすくめたい衝動を必死になって押さえなければならなかった。
僕は患者である前に男であった。
その男であるという自覚を強くさせるほど、寺岡よしえの見せた表情は、病院でかいがいしく看護するものとはまるで違ういじらしささえ感じさせるものであった。
いつもうしろで束ねている髪は、その束縛を解かれて、風の吹くままに彼女の肩の辺りでいたずらっぽく遊んでいた。それが又、どうしようもなく僕には魅惑的であった。
僕たちは何も言い合うこともなく、黙ったまましばらく歩き続けた。
「寺岡さん。僕たちはどこの向かっているの?」
僕は二人の間の沈黙を充分楽しんだ後に、何気なく聞いた。
「うん、この団地を抜けていくと、一帯が田圃になっているの。その間を小さな川が流れていて、あぜ道に腰を下ろしてその川を眺めていると、わたしとてもいい気持ちになるのよ。白い蝶々が飛んできたり、時々なんとも言えない鳥たちのさえずりだって聞こえてくるの。そこは別世界で、病院での色々な嫌なことを忘れさせてくれる私の隠れ家のような場所なの。だから、きっとユウちゃんだっていい心地がするんだろうと思ってこの道を歩いているの……ユウちゃん、山とか小川とか嫌い?」
「いや、好きだよ。僕が生まれた所だって澄んだ川が流れていて、夏になるとその川で魚を捕ってそのまま土手で焼いて食べたりしてた……春になると未だ冷たさが残る風に、抗うようにつくしがその川の土手のそこら中に土を破って優々しく伸びていた、そのつくしをいっぱい取って来て家で食べていた。子どものころには、小さかったけど僕の家にも田圃があって、そこには一面にれんげ草が咲いていた……あか紫の小さく可憐な花がきれいだった。そのれんげ草の絨毯の中を走り回ったり、転げ回ったりしていた……気持ちよかったなあ」
記憶の底に沈殿してしまっていた子供の頃のシーンが鮮やかに甦ってきた。そんなことを思い出すのは意外な事であった。
僕は、過去の楽しい出来事の中に身を置くようなタイプではなかった。
済んでしまった事より、目の前で進行している出来事、そう、現在に流れている時間を見つめ、未来に向かってその歩行を緩やかに進めていくタイプであった。
どんなに耐え難い現実が目の前に横たわっていようとも、甘く心地のよい追憶に浸っていく人間ではなかった。
でも何故か、寺岡よしえとの散歩で僕にふられた問いかけが何の心配も疑問も入り込む可能性の一片さえもなかった、ただ思いっきり遊ぶ事だけが生きていることの証しであった子供時代の日常のひとつのシーンを思い出させた。
僕は忘れ去られ、見向きもされなかった過去の時間の一コマが突然目の前に浮かび上がってきたのが不思議な気がした。
「あーそうなの。田圃と花、近くに流れる川それらがユウちゃんの原風景なのかもね」
コンクリートの公営住宅が立ち並ぶ横の道を過ぎると、人家もまばらとなった。
やがて、必ずどこかに繋がっているであろう道も極端に狭くなった。車一台がやっと通れるほどの道であった。それにつれて、歩き続ける僕と寺岡よしえとの間隔も狭まり、お互いの肩が触れ合うほどになった。
僕は、いつしか自分が入院していることさえ忘れてしまった。
病院の中庭から遠くに見えているにすぎなかった山々の木々はそのハッキリとした輪郭を顕わし、僕に話しかけ始めていた。
僕はいつかどこかで見たような風景にこころを奪われ、なんの計算も意図もないまま寺岡よしえの手を取った。軽く握られた僕の手に、寺岡よしえの力が自分の存在を誇示するかのように強く加わってきた。
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