川の向こう側へ
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第48回

 僕たちはまるで恋人同士のようであった。

 重ね合い、握り合った手に寺岡よしえの適度な力が加わったり、それは引き潮のように微妙に恥ずかしさを覆い隠すが如く弱められたり、時として子猫のよう無邪気に激しく動き回ったりした。

 僕たちは手で、また指で黙ったまま言葉を交わし合った。

 手を握り合った瞬間、僕たちの歩行のスピードは、彼女の意志によって極端に落とされていった。

 僕もなにも抵抗することなくそれに従った。彼女は、まるでその行為を楽しむ時間を引き延ばしたがっているかのように感じられた。

 指が僕の手のひらの中で、自由に踊った。

 看護婦と患者という関係が恋愛の妨げになるわけでも何でもない事は自明だが、寺岡よしえは一体どういうつもりであろうかなどという疑問が強くなったり弱くなったりしたあと、緩やかな波紋を描きながら僕のこころから意識出来ない所に消えていった。

 僕は精神病院への入院を契機に僕のこころの深い所にある何かが変質してしまった。

 いや、変質というよりもその入院をどう受け止めるべきかについて整理がつかない、その事実を自分の生きていく道のプロセスの中にどう位 置づければいいのかがわからなかったという事が正確な言い方なのかも知れない。

 おそらく、人は自分が生きてきたプロセスの所々に消化しきれず未整理のままの何かを残留させ、それを曳きずっていて、思想のようなものであるいは体験の中で学び取った原理のようなもので粉々にしてしまう事で新たな前進を計るのではないであろうか。

 過去への振り返りと再整理、その事実への新たな意味づけという作業を通じて、人は古い傷ましい殻から脱していくのだろう。

 でも、僕の場合、以前として過去の、済んでしまった事の一つひとつに未だに苦しめられている。過去の残がいが研ぎすまされた刃物のように僕の身体のそこら中を突き刺しているのだ。未だにその遺物の残片を粉々に破砕してしまう方法を僕は見つけ出していない。

 僕が樋上通子に言った入院は神がくれた試練―そんな言葉は中身がまるっきりない空疎なもので、格好をつけた僕の汚い虚勢に過ぎなかったではないか。

 樋上通子の僕への問いかけに対する答えは彼女の事を考えて言ったというよりは、自分の窮地の状況を無理矢理整理しようとした意識の結果 ではないか。

 彼女が言ったように、毎日、同じ様な日々が続くとしたら、その日々を生きていく意味はどこにあるのか、しかも精神病院をいつ退院出来るのかも定かではない状況の中で、樋上通 子が言った明日になんの希望も持てなくなるという独白―そんな中で自分の命を紡いでいく意味をどう与えていくのかさえわからなくなって、前に進めなくなっている状況に陥っている人に対してあまりにも無力な言葉だ。

 僕は卑怯であった。樋上通子の抜き差しならぬ問いかけを受容する事もせずに、そう自分の問題として厳格に受け止める事もなく、僕は苦しむ彼女の姿を鏡にして僕自身の逃げ場のない苦しい状況を慰撫していただけではないか。

 彼女の絶望、苦しみを見て、そこまでに到っていない自分自身の精神状態に安心していただけではなかったか。

 僕に向かって放たれた彼女の言葉を道具にして、僕だけの利己的な世界に身を隠し自分を防御していただけであったのではないか。

 一体、僕が明日に何かを求めていく激しい姿勢なんてあったのか。何にもなかった……空白だった、僕は怖かったのだ。

 病院を出た後、どう生きていけばいいのかなんてイメージ出来なかった。強い社会の偏見に立ち向かっていく覚悟なんてなかったし、それより職場に出勤する勇気など持てそうにもなかった。僕に対するみんなの目に耐える自信などまるっきりなかった。

 樋上通子こそ自分の深いこころの底に潜むものをさらけだし、誰に対しても格好つける事なく生きていたのではなかったか。

 ギリギリの卒倒してしまいそうな崖っぷちで、必死になりながら自分の世界をもう一度構築し直そうともがいているあまりにも人間的な存在ではなかったか。自分の体験をいかして僕に精神保健福祉士になるという夢さえ語ったではないか。そのため大学に入学するという事を恥ずかしそうに語っていたではないか……

 ユウちゃんって楽観主義者だね。ゆっくり本を読ませてあげる―含み笑いを残し寂しそうに言った樋上通子の言葉が甦ったり消えたりした。僕は彼女の真摯な姿勢をどれだけ真剣に受け止めたというのか……

 「ユウちゃん、何を思いつめているの?」

 寺岡よしえは絡めていた指を外し、背中に軽く手を置き僕の顔をのぞき込みながら言った。

 「うん、僕って嫌な奴で、どうしようもなくダメな人間だなんて思えてきてね……」

 「え? どういうこと? 何があったの」

 「いやね、樋上通子さんのことなんだけど、いったい人が人を支えるってどういうことなんだろうね。僕には人を支える力なんてないんだと思ったら、なんかどうしようもなく辛くなって来て」

 「ユウちゃん。わかるように言ってよ。私、なんことなのかさっぱりわからないわ」

 僕は樋上通子とのやり取りを言った。そして、僕のその後の想いなどについても一通 り説明した。

 「ユウちゃん。あそこに座ろうか」

 何も自己主張することもなく、穏やかに流れている小さな川の橋のたもとと田圃の区切り辺りが背の低い草で茂り絨毯のようになっていた。そのあたりを指さしながら、寺岡よしえは言った。

 「うん」

 僕たちは、何にも敷かずに、というよりお互いハンカチさえも持っていなかったから草の上に直に腰をおろした。

 寺岡よしえは両膝を立て、膝を手で抱えるようにして座った。形のいい脚が僕の眼に入ってきた。

 「ユウちゃん。気にすることなんかないよ。きっとユウちゃんの大変さだって樋上さんはわかっているし、彼女の言葉を聞いていてあげるだけで彼女、随分癒されていると想う。自分を責める必要なんてない。彼女だって、自分の手によってでしか立ち直れない事、充分に知っているんだと思うよ」

 彼女は空の奥底に何かを見いだしたように、僕の方には一切眼を向けず空の一点を見つめながら言った。

 「病気を共有している者同士なんだから、私たち治療する側の人間の言葉とは違って、きっと、ユウちゃんの言葉は特別 な意味を持って樋上さんのこころにしっかり届いたんだと想う……医師にも看護婦にも、ソーシャルワーカーにだって出来ない事をしているんだと思うよ。だって、彼女他の誰かに何か話しかけている姿って見たことないから、ユウちゃんの存在自身が勇気を与えているんだと想うよ」

 「うん、そうだったらいいんだけど、彼女のなにか僕に裏切られたような寂しい眼が気になって。何かを訴えかけているような眼だったし……」

 「彼女、自分の病気を直そうと必死なんだと思う。ユウちゃんの言葉を道具にして、うん神の試練っていう言葉?彼女のこころに、グサッと刺さたんだと思う。それって、病気を共有している者しか言えない言葉なんだもの。私が言ったら、単なる薄っぺらい説教になってしまうし、ほら人間同士ってどこかに信頼し合える関係がなかったら深い話って出来ないじゃない? 樋上さん、ユウちゃんを信頼しているからこそ自分をさらけ出してユウちゃんに向かっているんだと思う。だから、ぶつかりあえばいいんだと思う。それが人間同士の本来の姿なんだと思うから。そう、傷つけ合えばいいんだと思う。それでお互いがなにか気まずくなったとしたら、それまでの関係に過ぎなかったんだとおもう。お互い遠慮しあって表面的なところだけなぞるような関係だったら、なんの意味もないんじゃない?ユウちゃん、人にそんな関係を求めているの?」

 寺岡よしえはゆっくりと穏やかに話していたが、その中味は彼女の生き方の激しさを彷彿させていた。きっと彼女は物事を曖昧にすることなく、自分の意志と感情に忠実に生きるタイプなんだと思った。

 話の矛先が僕に向かってきたのには少々驚かされた。

 僕はずっと樋上通子の事を考えていたが、突然あることに気がつかされた。

 「寺岡さん。昼ご飯ってまだじゃあなかった?」

 「うんそうだけど、ユウちゃんそんなこと気にする必要なんかないよ。昼ご飯を食べられないってしょっちゅうだから。一食抜いたからといって死ぬ 訳じゃあないんだし。ねえ、整理ついた? あまり時間がないから、ゆっくりとはユウちゃんの話聞けないけど」

 僕は、もっとこのままここにいたかった。寺岡よしえとこの風景を楽しみたかった。

 その時、確かに遠くの方から鳥の声が聞こえてきた。

 なんという鳥なんだろうか?僕は鳥の鳴き声でその種類がわかるほど鳥については詳しくはなかった。勿論、姿が見えたからといってわからなかったとは思うが、ただ雀ではなかったことだけはわかった。

 「寺岡さん。時間は?」

 「そうね。そろそろ行こうか? ゆっくり歩いて病院へ向かったら丁度いい時間になると思うから」

 僕は先に立ち上がって、寺岡よしえに手を差し向けた。

 彼女は愛くるしい笑顔で僕の手を取って立ち上がろうとした……



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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