「樋上さん。僕たち約束しなかった? かりに、時期が違っても、ここの病院出て行って、新しい、今までと何か違った生活を歩もうねって。時には、お互いの生活の事なんかを情報交換し合って、励まし合おうって約束したじゃあない? まさか、忘れたって言うんじゃあないよね」
僕は、完全に保護室の中に身体を押し入れ、コンクリートの床に膝をつけた格好で彼女ににじり寄りながら、彼女との会話を想い出しながら、同時に自分にも言い聞かせるように言った。
精神疾患に陥った者は時として、なんの脈絡もなく自死という行動を発作的に取ってしまう。ついさっきまで元気だったのに、気がつけば、屋上から飛び降りたりする。まるで、飛び降りしさえすれば、そこから夢に満ちた自由な世界が展開されているかのように。その行動には、逡巡などなく、潔ぎ良ささえ感じてしまうほどのものだと、僕の主治医から聞かされていた。峡谷を流れる川が一切のためらいもなく、滝から激しく一直線に滝壺に向かって落下していくように。
自ら死のうとしている樋上通子の場合、ためらっている。死への道程をまっしぐらに進むというのではなく、その行為の中に葛藤が見え隠れしている。生きていこうという意志と、もうどうでもいいから自分の可能性を遮断してしまおうという気持ちの間にどうすることもできない揺れがあることを僕は見抜いた。
その揺れが、僕が彼女の死への行為を止めさせる現実的可能性の根拠、僕のそれへの確信を呼び起こさせた。
僕は、死のうとして凶器で身構えている樋上通子の眼を見据えて、ジリジリと歩み寄って行った。でも、その僕の行動が、彼女の自死への狂気を更にかき立ててしまうことも感じていた。僕は激しいジレンマと闘わなければならなかった。
「さあ、刃物を捨てよう。僕との話を思い出して……」僕は更に彼女との距離を縮めた。
「なに格好つけているのよ。私のことなんか全然わかっていないくせに。こっちに来ないで! もう、どうでもいいんだし、あんたには関係ないんだから!」
又、僕は怯んでしまった。足が止まった。
そうだ、僕は樋上通子の事などなんにも理解していない。そんな短い時間の中で、人間同士が分かり合えるなど出来るものではないことなど、大人が少し考えさえすれば、わかるというものだ。僕たちの真剣に交わされたと思える会話なんて、単に余りすぎて、どうしていいのかわからないまま、持て余している時間を消費するためのゲームにすぎなかったのだ。
今だって、僕は人の命を助けるというヒーローを演じて、勝手にいい気になっているだけじゃあないか。
僕が樋上通子に向かって進んでいったことで、彼女の自殺の衝動に更に火を注ぐ結果となったら、僕はどう責任を取ればいいのだ。
(やめてしまえ!おまえには関係ないことだ。逃げてしまえ!)
僕は、まったく動くなくなってしまった。
「ユウちゃん。負けないで!」
背中から、僕の胸の内を察するかのように、寺岡よしえの沈着な響きのある声が届いた。
でも僕は、その声に応えるための行動を取ることさえ出来なかった。
病院での僕の生活の中で、樋上通子との会話は大切なものになりつつあった。それは、単純でなんの変化もない生活に一定の潤いのようなものを与えてくれるもの。僕の病院での小さな宝物のようなものであったかもしれない。
樋上通子は、その複雑な想いを、なんの演出を加えることもなく僕にぶつけるようになっていた。
でも、それは友情などというものではなく、お互いを無二の者として認め合うなどというものでも情を分かち合うなどというものでもなく、一つの極限状態、出口が見あたらない空間での哀れな同胞。例えようのない哀しみを共有する者同士の負け犬のような連帯感などといった方がいいのかもしれない。
いや、そうではない。ポッカリと開いた傷口を舐め合う仲間。
何かに敗れ去った者のうつろで、滑稽な姿をお互い眺め合って、自らの何かの喪失感による存在の頼りなさを、自分勝手に、そう、それはエゴの張り合いであったかも知れない、お互いの存在がその確固として生きている現実の喪失にふたをするための格好の道具にしていたに過ぎないという言い方が適切であるかも知れない。
僕たちは言葉で慰め合い、励まし合ったのではなく、その悲惨さを―その惨めな身に耐えられず、お互いの状態を自分たちと比較したうえで、自分の心のみを慰撫し、自分を安堵させて、無理矢理今の状況を納得させていただけ……僕らは嫌になるほど、どうしようもないほど弱かった。
ある日のこと。僕が入院してから、少し経った時のこと。僕は随分、気を回復していた。
病院から歩いて15分ぐらいの所に公立の図書館があった。僕は、誰を誘うこともなくその図書館に出入りしていた。
僕は図書館から借りてきた「寺山修司コレクション1」をいつもの午後と同じようにディルームで読んでいた。寺山修司の全歌集・全句集である。
本を読んでいる僕に話しかけるのが決められた義務だとも思っているのか、いつものリズムでやって来て、僕の向かいが自分の指定席であるかのように陣取り、樋上通子は言った。
「ユウちゃん、夢って持っている?」
「え?夢?どうしたの?突然に……」
「うん。ユウちゃんがどんな夢を持っているのか興味があったから」
「そんなこと突然言われても、スイッチを入れたテレビから流れるニュースをしゃべるアナウンサーのようには言えないよ」
「あー上手い言い方」
「人間ってね、夢っていうか、明日に何か待っていると想えるから、嫌なことでも耐えていけると思うの。それほどでもない、うん、なんでもない今日という日がずっと続くんだったら、生きていく価値なんてどこにあるのかしらね。ねえ、そう思わない?」
「でも、同じようでも、まったく同じ日ってないし、何かの力で命がある限り、僕たちは生きていくのが当たり前だと思うよ。現に日本だって、世界だって毎日、変動しているじゃあないか。そうやって、生きていけば、今、入院という厳しい現実があるけど、必ずどこかに活路は開けて来るんだと思う。ここに入院して、僕は改めて感じたんだけど、これは、神が僕に与えてくれた試練だと思うようなった……」
「ユウちゃんって、楽観主義者なんだ。笑える」
そう言った樋上通子は、本当に微かな笑みを浮かべていた。それは、侮蔑なのか、それとも……。
僕は、その笑みを見ていてもたってもいられないような気恥ずかしさを覚えた。
「ユウちゃん。ゆっくり本を読ませてあげるから」そう言って、彼女は突然席を立った。
僕は楽観主義者でも悲観主義者でもない。勿論、リアリストなどと気取るつもりもなかった。単に意気地なしに過ぎない。自分の事を考え、考え抜いて、気がおかしくなった、目の前に突然立ちはだかった壁の厚さにたじろいで悲鳴を上げて、音をあげてしまった普通の、いやダメな人間に過ぎない。人に意見する資格なんてあるはずがない。
樋上通子に言った言葉だって、単に自分に言い聞かせているに過ぎない。(神の試練?)僕にはそれを越えていく力なんてない。神が現に僕たちの周りにいるとすれば、ただ彼の前にひざまずくことしか出来ない。神の力にすがるしか出来ない。いや、神の前に自分を無心にさらけだす勇気さえない。
そんな人間が夢を語ったり、人の命の問題―それは、結局、派生した問題とどう立ち向かっていくかという事だが、そんな事について人に意見を言う事は出来る筈がないじゃあないか。
樋上通子に言った事が、逆に僕を苦しめてきた。
(オレは、偉そうに何を言っているんだ。活路を切り開いていく力なんて、一体オレのどこにあるんだ)
僕は急に寺岡よしえと話がしたくなった。
僕はたまらなくなって、看護婦ステーションに向かった。
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