川の向こう側へ
前のページへ戻る 次のページへ進む
☆10/08更新☆
第44回

 僕は、来年で39になる。

どう考えても、中途半端な年令だ。

 何かの本に書いてあったような気がするが、20代は闇雲に疾走する世代。30代は、疾走した時の爽快感を胸にしっかりと繋ぎ止めて、ターンオーバーする時。そして、新たなステップを着実に踏んでいく世代。40代は軽やかに風を切るように、新しい高みに向けて進む世代などと書いてあったような記憶がある。

 でも、そんなもん嘘っぱちだ。

 僕は、20代の中盤に精神病院に入ってしまった。

入ってしまったなどと冷ややかな、ちょっとした錯誤に過ぎないような言い方をしているが、それは僕の人生の中ではとんでもなく重い事実であり、その重みで何度もぺしゃんこになってしまった。

 原型を留めないほどぺしゃんこにされ、へこたれてしまい、もう一歩も前に行けないという暗く思いっきり空虚な挫折感に、ギリギリと苛まれ続けて来た。

 もう生きていけないという切迫した絶望感が、僕の目の前で、グラビアから出て来て、自分の性的な魅力を限りなく振りまく挑発的な女のように僕を誘惑し続けた。

 僕にとって死は、遠い彼方の方にあるものではなく、とんでもなく近い存在であった。

なにかのはずみで、少しジャンプしさえすれば、もうこの世ではない、決して後戻りが許されない世界に逝ってしまうほど近い距離の中に僕はいた。

そう、死は僕と最も頻繁に話す親友のようなもので、いつも僕の側にいて、死が僕にこっちに来いと笑いかけていた。

(なにを悩んでいるんだ。こっちに来れば、楽になるのに。どうして、お前は躊躇しているんだ)そんな危険に満ちたやさしい眩惑と、僕はいつも闘っていた。そして、へとへとになっていた。

 僕にとっては、20代とは闇の世界。どこかに行きたくても、道も見えないし、進む方向さえ見えず、前を照らす明かりなど一切なかった。

僕はどこにも行けず、立ち往生する事が日常のありふれた風景であるような生活の連続だったのである。

 なにが20代は疾走の時代だ。

僕は20代の中盤から後半までずっと転げ回り、のたうち回っていた。その痛烈な痛みに耐える元気さえ奪われて、もうひん死の状態であった……疾走する力などどこにも残っていなかった。走り抜けるなどという事は思いもよらぬ事だった。

 そして、30代に突入してからも状況はあまり変化しなかった。

いや、それは正確ではない。陳腐だがあえて言ってしまおう、砂を噛むような空虚感はその強さをさらに増して、僕の精神をいたぶるように責め続けたのだ。

 そう想像して欲しい。

高熱で身体が衰弱しきって、立ち上がったときのフラッとくるあの不安定感、一歩踏み出すと、足の先から崩れ落ちてしまいそうな感覚が訪れ、正常な歩行を決して許さないような、その時のなにもかもが自分の中から消散してしまい、からっぽになってしまったような状態。きっとそれはわかってもらえるはずだ。

 その抜け殻になってしまった僕自身を、少しでも風が吹きさえすれば、どこかに飛んでしまうような存在感のない僕自身をやっとの思いで支え、地に足をつけているのが現実であった。

 その頃、僕はなんの魅力もない人間に過ぎなかった。他人に対して、積極的にコミュニケート出来なかったし、なにかを話しかけられるのを極端に恐れていた。失語症などというものではなかったが、人を理解したり、僕という人間をわかって欲しいなどと想いを持つこと自体、うっとうしかったというのがホンネであった。

 すべてのことに関心をもてなかったのである。僕自身が、一人の人間としてこの世に存在すること自体、あまり興味がなかったと言えば、わかってもらえるであろうか?……

 勿論、今だって自分の形を、自分の個性などというものが盛られている器を、人を引きつける方法を、お互いになんのわだかまりもなく人とつき合う事、それらの表現の術さえわかっていないのが現実なのだが、30代の初めはもっとこころが渇ききったカスカスの人間に過ぎなかった。

 僕をまるっきり知らない人たちの中へと逃げ出してしまいたかった。

あそこから、逃げ出してしまえば、なにか新しいものが始まるような気がしていた。

 あるゆる事に可能性が拡がっている世界にズーンとして身を置きたかった。

でも、そんな勇気さえ僕にはなかった。そうだ、僕はどうしようもない人間だったのだ。

 むしろ、初めて病院に入院して単純極まりない生活を強いられていたときの方がヴィビットに生きている感覚を持てていたのかも知れない。

 樋上通子との会話、いつもサングラスをかけていた上田浩二との触れ合い、主治医との日々。かいがいしく、一心に働いていた看護婦寺岡よしえの励まし、あの笑顔。

恥ずかしそうに僕にキャンディをくれたあの子の純な眼差し。

中庭での時間が止まってしまっているかのような日常。

 時々、又あの世界へと戻りたいような気が、フラッシュバックのように眼前に拡がってくる。想えば、病院では僕はあらゆるものから保護されていたのだ。

 誰かからなにかを要求されることもなかった。僕の周りにいる人たちになんの気兼ねもする必要がなかった。

 ただ、好きな本を読み、飽きてきたら音楽を聴く。毎日なんの約束もなかったし、責任などという世界からも完全に自由でいられた。自分の時間を強制的に奪われることなども一切なかった。僕は気ままに、気まま? そう気ままに過ごせていた。ゆったりとした時間が知らぬ間に過ぎゆき、陽が沈む。夕ご飯が用意されて僕はそれを食べる。消灯時間が来て、ベットに潜り込み眠る。朝が来る。僕らは会話をすることもなく、食堂に集まり、黙っていそいそと朝食を食べる。ディルームで自由に時間を過ごす……

 でも、本当にその場所に戻りたいのか?



 格好つけて言うつもりはないが、生きていくという事は傷つくことだ。人との的確な距離が保てず、フラフラになりながらも足を明日に向ける事だ。傷つき、心がギンギン痛むのだが、それに耐えて歯を食いしばる事だ。

 最近、生き直しという言葉が好きだ。その言葉の裏には何かを新しく開始するニュアンスの匂いがある。僕はもう一回、自分の人生などというものを再構築したいのだ。そのために、このストーリーを語っている。

そう、樋上通子のことだ。彼女の痛ましくて、やり切れない事を語らなければならない。あの時のことを。



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。