生きていくということは、ある意味で、抜き差しならず自分にとってかけがいのない目的を達成していくプロセスかもしれない。
又、それは別の言葉で言い表すと、幸福探求の厳しい、簡単に道を拓く事の出来ない、曲がりくねったプロセスであると言えるかも知れない。
失敗も、なんらかの挫折をも越えていけるのは、今は見えないがちょっと先にきっとあるに違いない心地のいい状態を夢想する自由を、その誰からも拘束され得ないデッサン力を僕たちは持っているからである。
今の向こう側にある明日の事は誰にもわからないが、それを肯定的に描き出す能力を僕らは持っている。救いがたいペシミストはいざ知らず、普通の人、なにが普通なのか判然としないが、でも普通の人たちだ。今を不幸と思いながら、こんなはずはないと現実に生きるその人たちは、明日をバラ色とは言えないまでも、今よりいい時がきっと来ると想いながら足を踏み出すものだ。
きっと、誰もが陳腐だと言い放つと思われるが、例え暗闇のなかと言えども、その向こうには夜明けが待っている……その希望のようなものを失わない限り、うつむきながら、転げながらでも生きていけるものだ。
生きているということは、描き切れていない自分の絵を、構想力の限界をギリギリまで駆使しながら描こうとする行為の積み重ねだ。
自分の果てのないイマジネーション、感性の限界ギリギリのところまで向かっていこうとする姿勢を持続させる意志、それが生きると言うことかも知れない。
でもでも、僕、樋上通子。それに信じられないほど長い間病院に入院している人たち。それらは精神障害者と言われる存在で、明日という時間を形成し、構想する事が極めて困難な人たちである。果たして、どんな未来が待っているというのだ。ひっとしたら、決して壊れることのない、無限の苦しみの断層が待ち受けているだけかもしれない……
それにしても、精神障害、なんていやな言葉だろう、精神に障害があると社会から断定され、人間としての輝きや素晴らしさを発揮する事が困難な存在。
「僕は違う!!」とだれかれなく、そこにいる人たちに向かって叫びたい。
違う? なにが違うというのだ。なにが違う? 一体何が?
僕はハッとして、その違うという言葉を飲み込む。
違うという事で、精神障害者を向こう側に置き、僕をこちら側に置こうとする―あえて、繋がりと関わりを断絶しようとする……卑劣な事だ。人間と人間を何かによって峻別しようとする行為。そんなもん、堕落だ。人間らしくない想いだ。
「人間らしい?、人間らしくない?……」―その問いかけは問いかけのまま、たゆまなく流れていく川に吸い込まれていく。
僕が精神保健福祉手帳を交付されてから2年の時間が川のように流れていったが、それらの問いかけへの答えは未だ出せていない。
どれだけの時間が過ぎたのであろうか、僕がいた取調室に警察官が入ってきた。
女性であった。髪をきれいにそろえ七、三に分け、肩までストレートに伸ばしていた。くっきりとした目元が印象的であった。
取調官は椅子に座り、「私は、井倉と言います。樋上通子さんの件であなたに事情をお伺いしたいと思いますので、知っていることをお話し下さい」と話を切りだしてきた。
僕の心に張りつめた緊張が走った。
なんの意味もなかったが、両手の指を組み腕を真っ直ぐ伸ばした状態で机の上に置いた。
「あなたのお名前、生年月日、住所を教えて下さいますか?」
爽やかで、やさしいトーンであった。僕は緊張を少し崩し、その質問に答えるとともに聞いた。
「あの、すみませんが、樋上さんはどんな罪になるんですか?」
「取り調べが進まないとなんとも言えません。あなたは自分の感覚で、見たままの事をおっしゃっていただければいいのですよ」
彼女の言い方は丁寧で高圧的なところは一切なかった。その顔には、僕の心の防波堤を崩してしまいそうな笑みさえ浮かべられていた。
勿論、僕はなんにもしていないし、単に事情の説明を求められているだけだから、あたりまえの話だったかもしれないが。
樋上通子はどうしているのだろう、気になって仕方がなかった。
同時に、僕たちが精神病院に入院している患者であることを、いつどう言えばいいのかも考えていた。
僕はどう言えばいいのかも判断出来ないまま言った。
「こんな事、言う必要もないことかもしれませんが、僕たち、僕と樋上さんという意味ですが、病院に入院しているんです。精神病院です」
取調官の表情が急に曇った。
彼女の表情はさっきまでとてつもなく晴れ渡っていた冬山が、突然雪にさらされてしまったような感じであった。
先ほどまでの柔和な表情が消え去り、くっきりとした目元に鋭い影が射したような気がした。
二人の間に、厳としてとがった氷のように冷たい空気が漂い、部屋の温度が一気に下がってしまったようであった。
「精神病院って、言ったわね。どこの病院なの?」
彼女の言葉には、少しも妥協することなく追求していく刑事の一徹な精神が溢れているようであった。
僕はその勢いに圧倒されながらも、グッと踏ん張り気後れすることなく言葉を吐き出した。
「清風第二病院です」
「清風第二病院ね。そこは、もう長いの?」
「僕は入院したばかりですが、樋上さんは1年になると思います」
「わかったわ。ちょっと席を外すから、ここで待っててくれる?」
井倉刑事は、いや僕が勝手に刑事と言っているだけで本当は違うかも知れないが、その取調官は椅子から立ち上がり、僕の返事を聞く事もなくドアーを開け少し僕の方を振り返りながら部屋を出て行った。
僕は、お湯に入れられた氷のように張りつめていた緊張が溶けだしていくのを感じた。
そんなに時間が経っていたのでもなんでもないが、突然疲れが全身を駆けめぐった。
組んでいた両手の指を外して見ると、汗がぼんやりとした蛍光灯で光っていた。
自分の気持ちを落ち着けるためか、何も意識せずにかはっきりしなかったが、その両手を膝の上に置き何度か往復させた。そして、樋上通子の事を思った。
彼女が興奮しコップを叩き割った店での僕を射すくめるような視線と、見たこともない、強烈でこわばった表情が僕の眼の中で甦って来た。
警察の場面からフェイドアウトし、僕はその世界をひとりさまよった。決して応答のない彼女との独りよがりの対話を開始した。
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