川の向こう側へ
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☆9/17更新☆
第41回

 パトカーのサイレンの音がさらに大きくなってきた。

烏丸通りの上立売の信号の近くまでパトカーは来ているに違いなかった。しばらくして、窓外に車が止まる音がして、店のドアーが開いた。

 僕は店の窓に背を向けながら動きを止めたまま、じっと樋上通子を眼差していた。

彼女の僕を食い入るような激しく攻撃的な眼が動き、その視線がドアーの方に向けられた。それと同時に、樋上通子の視線を追いながら僕は振り返った。

「警察の者です」

パトカーから降り立った警察官二人のうちの一人が店のスタッフに向けて名乗った。

「先ほど、署に電話されたのはこちらの店ですね」

180センチを超え、100キロはあるかと思える大きな体をしたもう一方の警察官が落ち着いた声で、カウンターの中にいたスタッフに向かって言った。

「ええ。そうです」

店の責任者であるように見える女性が警官に向かって答え、視線を樋上通子に移した。

「あなたですね。店で暴れたのは」と警官は樋上通子に言った。

樋上通子は悪びれた様子を一切示すことなく、毅然とした態度と表情のまま警官を見据え、一言も口を開かなかった。

「椅子をひっくり返したり、コップを投げつけて割ったりして暴れたのはあなたですね?」

警官は彼女の前に立ち、念を押すように繰り返したが、樋上通子はなんにも答えなかった。

 僕はあまり知らなかったが、彼女の先ほどの一連の行動、その時の表情などから察して、樋上通子は僕なんかよりずっと闘争的であり、一途な生き方のスタイルを持ち合わせている女性であったかもしれない。

「ええ。すみません。そうです」詰問した警官の後ろから僕が言った。

「あなたは、彼女とどういう関係なんですか?」警官は振り返り、柔和で穏やかな表情を浮かべ僕を見つめながら言った。

「知り合いです。一緒にコーヒーを飲んでいました」

「お名前は?」

「田島祐一です」

「かわりに聞きますけど、店で暴れたのは彼女ですね?」

僕は、ここで抵抗したり、事が運ぶのを妨害したりするのはダメだと考えて、視線を樋上通子に送り同意する事を促したが、彼女の表情は硬直したままなんの変化もなかった。

 僕は仕方なく、「そうです。間違いありません」と言った。

「ユウちゃんなによ。あんたは関係ないでしょう。黙っててよ」

樋上通子は、僕を責めるようなトーンで激しく声を荒げた。

「私は樋上通子です。別に店で暴れたわけじゃあないです。でも、コップを割り、椅子をひっくり返しました……私を調べるんでしたら、警察署に行きますので店を出ませんか」

 堂々として、落ち着いたものであった。

僕はそれを近くで見ていて、ひょっとしたら樋上通子はこういう事を何度も経験しているのではないかという想像が拡がっていくのを感じた。それほど手慣れた様子であった。

 警官に対する態度は、一歩も引き下がらない強い意志が闘牛のように表れ、鬼気迫るものがあった。

病院の流しで初めて出会ったとき、そしてディルームでしゃべったときとはまるっきり違う人であった。

下鴨神社、出町柳、出雲橋、賀茂街道などを歩いた時の樋上通子とは全く違った人格が乗り移ったのではないかと僕には思われた。その激しい気迫は尋常ではなかった。

 このお店で、もう生きていけないかも知れないと沈痛な叫びを僕に示した樋上通子はどこにもいなかった。

 僕は、別人のような樋上通子にかける言葉はなにも見つからず、黙ったまま案山子のように突っ立っている事しか出来なかった。

 惨めであった。

状況に一切、コミット出来ない、事態の収拾になんの役割も責任も持てない自分がいた。

どこにも向かっていけない自分がいた。

「では、事情を調べますので署にご同行願えますか?」

警察官は、樋上通子に向かって、丁寧に言った。

「田島さんでしたね?あなたも一緒に来ていただけますか?それから、店の人も来ていただけますか?」

「でも、店の都合もありますから」と店の責任者と思える女性スタッフは答えた。

「そうですね。じゃあ、都合がつきしだいで結構ですから」

僕たちは、二人の警察官と一緒に店を出た。

警察に行けば、帰院時間には間に合わないし、この「事件」について病院に連絡する必要があると思ったが、どう説明すればいいのか見当がつかなかった。

 僕たちはなにも言わずにパトカーに乗った。

 管轄の警察に着くのにそんなに時間はかからなかった。

僕は車中、樋上通子になにも話さなかったし、彼女も僕に話かけることはなかった。張りつめた緊張が二人の間に行き交った。

 僕たちは、お互い見合うこともなくじっと前方を見たまま、その緊張を味わった。

「着いたから、車から降りようか」助手席に乗っていた警察官が僕たちの方を振り返って言った。

僕たちは、その指示に黙ったまま従った。

 警察の建物は、いつの間にか、傾いてしまった西陽で輝いて見えた。それが何故か僕の気持ちを逆立て、心に強いざわめきを走らせた。

 「じゃあ、二階に取調室があるから、上がっていこうか」

僕たちは車中と同じように押し黙ったまま階段を登った。

「田島さんは手前の部屋で、樋上さんはその奥の部屋に入って、少し待っていて下さい」

僕たちは別れて、それぞれの部屋に入った。

部屋には、余分なものは一切なかった。スチール製の机とパイプ椅子。スチール製のロッカー。ただそれだけであった。

僕は椅子に座った。

僕は眼をつむり、樋上通子の事、病院への連絡の事を考えた。

 想いが錯綜してまとまらなかった……



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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