「この前言ったけど、先生に言わせれば、私の病気少しも良くなっていないんだって。うん、少しもって言うのはちょっと言い過ぎだけど。先生はいつ退院できるかも言ってくれないし、毎日が単調な生活で、なんのはりも持てなくて……生きている感じがしないの。がんばって生きていこうなんて、全然、思えないの……私、もう生きていけないかもしれない」
沈痛なつぶやきであった。
樋上通子の視線は、決して僕の眼に飛び込んでは来なかった。
僕を正視することなく、テーブルの木目の、どこかのある一点を凝視したまま、テーブルに向かって独白しているかのような感じであった。
その趣きは正気がどこかに飛んで行き、僕らのいる「世界」から離脱してしまいそうなものであった。
人は、狂気などというが、僕はそれがどんなものかはまるっきり理解していなかったし、「狂ってしまう」などというものが一体なにを指しているのかも知らなかった。
でも、彼女を見ていて、僕らが住んでいる世界からスーッと遠のき、まるっきり違った場所へと行ってしまうのではないかという錯覚が僕の前に拡がっていくのを感じざるを得なかった。
僕は怖くなってきた。
これから何が始まるのか、僕は彼女に対して何をどうすればいいのかなど見当もつかなかった。
そうだ、僕は完全に動揺していた。
今までの人とのつき合いの中で、見たこともない表情と冷気を帯びているとさえ言える樋上通子の言葉を前にして。
僕は彼女に呼びかけるべき言葉を失ってしまった。
僕が手をこまねいていたら、彼女はどっかの世界へと逝ってしまう、どうすればいいのだ、どうすれば。
僕の目の前に厳としている樋上通子。
彼女は僕になにかの助けを求めている。その意味は判然としなかったけど、危機の信号を僕に送っている……でも僕にはそれがわからないのだ。
僕も、当然樋上通子もだろうが、今までの散歩の楽しさのようなものは消し飛んでしまっていた。彼女は、きっと絶壁の断崖の前に立ち、下に吸い込まれそうな気分に煽られながら、なにか決死の気持ちのようなものを秘めて口を開いたに違いない。
それは、何となくわかったのだが。
僕は、自分の人間としての未熟さをいやというほど感じながら、黙ったままカップに手を置き、コーヒーを一口飲んだ。
「ああ、このエスプレッソおいしい……」
そんな、その場に似合わない、なんの意味も持たない事を言う事しかできなかったのだ。
自分の人間としての卑小さを、その無力さを目の前に突きつけられて、そのまま、彼女に何も答えることなく店を出てしまいたかった。
いや、きっとそうすべきであったであろう。しかし、そうした僕の気持ちとはうらはらに、僕はなんとかして彼女を救うべきだという態度に拘泥してしまった。
エスプレッソがおいしいなどという、どうでもいいことを言ってしまっている僕の幼稚さと人としての限界を感じながらも、なんとかして彼女の出口、希望のようなものに繋がっている道を探し出す事を模索し始めていた。
「樋上さん、病気に負けちゃあダメだよ。耐えて行くのが人の道だと思うよ。命って二つとない大切なものなんだから」
僕はやっとの思いで言葉を発した。
でも、その陳腐さと弱々しさにめまいがして来ると同時に、しまったという後悔が僕を襲った。
そんなことわかりきったことなんだから、絶望の淵の近くにいる人に対してなんの意味も持たないし、いやむしろその凡庸さゆえに、さらに傷つけるだけだという事さえ、ハッと気がついて、僕は苛立ちを覚えた。
樋上通子は、うつむいたままの状態から、僕の言葉を聞きおもむろに顔を上げた。
そして、僕を嫌悪するかのようににらんだ。その視線の激しさに僕は一瞬たじろぎ、顔を上にそむけた。
「あなた、何んでもわかっているような事を言うのね。私、そんなに馬鹿に見えるのかしら。どうしようもないダメな人間に見えるのかしら」
彼女の、押し殺した低いトーンの辛辣な言葉が僕を刺した。
彼女は鬱の精神状態にあるのだ。
飲み物のおいしさも、ケーキの甘さにも鈍感になっているのかもしれない、いや鬱という事は「世界」の存在そのものさえもうっとうしく感じているのが実際であって、喜びとか明日への期待とか持てないものであったかも知れないのだ。
そんなことに対する配慮もなく、僕の言葉は彼女のある意味では歪んだ感情の世界をかき回して、さらに出口をふさいでしまう結果しかもたらさなかった。
「馬鹿に見える」「ダメな人間に見える」という樋上通子の言葉と鋭い眼の輝き、攻撃的な態度に僕はたじろぎ、萎縮してしまいそうな気分に襲われた。
「ごめん。そんな意味で言ったんじゃあないよ」
僕は苦し紛れに、次の展開を考えもせずに弁解のような言葉を放った。
「じゃあ、一体どういう意味なの?」
僕は、罠で足を傷つけられても、なお必死に走ろうとするウサギのようだった。誰かに射すくめられて身動き一つ出来ないほどに追いつめられた。
又しても、適当な言葉が浮かび上がらず、黙ったまま壁面に飾られた水彩画に眼を置いた。
「ねえ、聞かせてよ。どんな意味なのよ」
樋上通子は、貪欲なまでにも僕に次の言葉を求めた。
(何を調子に乗って言っているんだ。格好つけやがって。俺の何を追求しているんだ。俺とあんたとは単なる入院しているというケースのみで知り合った仲に過ぎないんだよ。あんたの未来に対して、一体俺になんの責任があるっていうんだ。だって、お互い知り合ったばかりじゃあないか。そんなに追求される筋合いなんか何もない。それに、俺だって病気なんだ。俺だって、病名さえ知らされずにいて、苦しいんだ。ヘトヘトというのが現実なんだよ。もういいからあっちに行ってくれ……)
そう言って、席を蹴ってしまいたい衝動がジェットコースターの下降のように僕の胸を駆けめぐった。
「樋上さん。ちょっと違うんじゃあないの。あなたの精神状況の厳しさや、将来に対しての不安など理解できないわけじゃあないけど、あくまでもそれはあんたの問題だよ。そりゃあ、信じてた彼氏にお金ともども逃げられたってこと大変な事だとは思うけど、僕ら知り合ったばかりだし、あんたのことも良く知らないしね。自殺未遂だって俺には経験ないことだし、わからない。でも、荷物を背中に背負っているのはあんたなんだから。僕があんたに代わって、それを背負い込むことなんて出来ない相談だし、あんたが僕の言葉を拒むんなら、もう前に進みっこないから止めよう。二人でここにいる意味なんてないし、お互い嫌な気分になるだけだから。もう出よう」そう言いレシートをグシャグシャに握って、僕は一人席を立ってクラシックなスタイルのレジスターが置かれている所へ行こうとして席を立った。
「待って。私の話を聞いてくれないの」
樋上通子は僕の腕を取って言った。
「離せよ。人の気持ちも知らないで、都合のいいことばかり言って。一体何様のつもりなんだ。つき合いきれないよ」
僕は、自由になっているもう一方の腕で、彼女の僕の腕に握られた指をほどこうとして力を入れた。
彼女の細い腕が、微震のように小刻みに振るえた。
僕はもう一度、更に力を入れて振りほどきにかかった。
「行かないで!」
樋上純子はもう一方の腕で身体ごと、足に絡めてきた。僕は前に進む自由を妨げられ、身動き出来ない格好になった。
「止めろよ。他のお客さんに迷惑じゃあないか」
僕は周りに座って時間を楽しんでいた客たちの方に眼をやった。例外なく、みんな何が起こったのか理解できず、戸惑いの表情を示していた。
「そんなこといいから、座って!」
「いや、俺はもういい、なんにも出来ない、もう行くよ」
僕は彼女の話に耳を貸すこともせず、引き続き店を出てしまう姿勢を崩さなかった。
その瞬間、彼女は、僕の足に巻き付けていた腕を素早く取り去ると同時に、コップを思いっきり床に叩きつけた。
「キャー」という女性客の声が甲高く店に響いた。
樋上通子は、その女性客たちの悲鳴になにも臆することなく、いやむしろ騒ぎを大きくする目的であるとしか思えないほど駄々っ子さながらに、テーブルのコップをもう一つ手に持って壁に投げつけた。
水の飛沫が飛び散り、ガラスの破片が床に砕け散った。
僕は映画の現場にいるかのような錯覚で、一体どうなるんだという気持ちと、この場を収拾するためにどう行動すべきかもわからないまま、呆然として樋上通子の顔を凝視するしかなかった。
奥の調理場から責任者らしき30才ぐらいの女性が「お客さん。冷静になって下さい!」と叫びながら僕たちの方へとやって来た。
それに一瞥をかけると、さらに樋上通子は、テーブルをひっくり返した。
事態は深刻さを深めていくだけであった.
「上川さん。警察。警察を呼んで下さい」飛び出した来た女性が店のスタッフに激しく声をかけた。
僕はなす術もなく、じっと動かず立ち尽くしていた。
樋上通子は、暴れるなどという風ではなく、むしろ沈着な表情さえ浮かべ、逃げ隠れすることもなくジッと僕にのみ視線を送っていた。
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