川の向こう側へ
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☆9/10更新☆
第40回

 僕と、樋上通子との初めてのデートはとんでもないものになってしまった。

お互い、日常の生活の中のある出来事に傷つき、自分たちに降りかかった問題を上手く処理出来なかったもの同士であるから、慈しみ合う事ができる、最も近い存在であったはずである。

 心の内側の一画を、激しく責め立てられる痛みを抱える者同士であるから、その出口のないようなその苦しさをわかりあえるはずであった。

 わかりあえるとは、その人の感覚、ものの感じ方を自分の事としてリアルに受け止めることが出来るということだ。

 心底に拡がっている世界にそれほどの困難を感じることもなく入っていき、同じような心情で、その人に映っている世界を感じ取れること、それがわかりあえるという事だ。

 樋上通子は私になにかのアドバイスを求めたわけではなく、自分の問題を、自分が抱えている、言葉では説明しにくい痛みを、なんの注釈も批判も加えることもなく同じように感じて欲しかったのだ。

 そうだ、僕は、彼女に対して意見を表明する必要などなく、彼女の痛みの独白をただ聴くという態度に徹するべきであった。

 僕が、まるっきり身に覚えのない窃盗の疑いをかけられて窮したとき、最も望んだのは僕の声を予断なく聞いてくれる事ではなかったか。なんの注釈も、励ましも、通俗的な説教などもなく、ただ僕の弁明を聞いてくれる人こそ望んだのではないか。

 出口のない迷路のような世界をさまよいざるを得なかったとき、僕は導いてくれる人を希求したのでなく、一緒にさまよってくれる人の存在こそ求めたのではないか。

同じその状況の空気を感じ取り、困難を共に分かち合ってくれる人、僕の不器用で、みっともない重い歩行を黙ったまま許してくれる人こそ求めていたのではないか……

 僕は、樋上通子に対して、それとまるっきり違う正反対の事をしてしまった。

もっともらしく理解者を装い、彼女を救うなどという身分不相応な気負いだけが先走り、自分の幼稚で狭い考えを押しつける結果となってしまった。

それが、彼女にとって限りなく不快であったとともに、僕のいやらしさを嗅ぎ取ることともなり、どうしようもなく彼女を傷つけてしまった……

 店を飛び出すこともなく、立ち尽くしながら僕を射る彼女の眼差しは、僕に対する失望に満ちていた。その眼差しは僕になにかの救いを求めたことに対する後悔と、通り一遍でなんの解決にも繋がらない僕の言葉を激しく責める色彩が如実に浮かび上がっていた。

 コップを投げつけ割るという行為は、病気の結果から派生するものではなく僕の不甲斐なさへの冷静な抗議であった。

それは少し個性的で、みんなには理解されることは決してないが、彼女らしい僕への失望の表明であったかも知れない。

 そうだ、彼女は興奮などしてはいなかったのだ。

それは正当な論理に貫かれた、彼女にとってはすごくスムーズな行為であったのかもしれない。

 僕たちは、言葉を一切交わすことなく、眼差しを投げつけ合いながら立ち尽くす姿勢をお互い示し合っていた。

 僕は視線を外せば、更に樋上通子を傷つけ更なる裏切りを重ねてしまうのではという危惧を感じていた。

 その眼差し合いはどれだけ続いたのだろう、僕が耐えきれなくなり口を開いた。

「さっきは、ゴメン……僕が悪かった……許して」

僕はゆっくりと、単語を一つひとつ区切るように言った。そして、一歩、樋上通子の方へ足を進めた。

樋上通子は、動きもせず、表情も変えず口を一文字に結んだままであった。

僕は、何も考えることもなく、もう一歩前へ進んで言った。

「さあ、病院に帰ろう。そして、ゆっくり休もう」と目を彼女に据えて呼びかけた。

 彼女の一文字に固く結ばれていた口が少し開いた。

樋上通子はなにか言いたそうに、大きめの瞳が動き、それに瞼が何度か動いた。膝がゆるみ、肩が横に流れた。よろけそうになったが、片方の脚で踏ん張り姿勢を元のように整えた。スクッとした姿勢のまま大きな呼吸をした。少し顔が歪んだ。

 必死になって、自分の気持ちを鼓舞させようとしているかのようであった。

歪んだ顔を整えようとしても上手くいかないようであった。小さな肩が上下に揺れ始めた。崩れかけた顔を元に戻そうとして、歯で下唇を噛んだ。さらに肩の揺れはその激しさを増していった。そして、涙が溢れ始めた。

その涙を振り切るように、うつむいて瞼をしっかりと閉じた。頭が軽く振動していた。再び顔を上げ、僕を見つめたときの眼は涙でいっぱいであった。

 樋上通子は、平常な精神を取り戻そうとしていたが、無理であった。

「樋上さん。いいんだ、なにも気にしなくても。ねえ、病院のベッドで休もう」

彼女は何か言おうとしても、その想いは言葉にならないようであった。

だらりと下に伸びていた腕に力が入った。手が動き拳がつくられた。拳は力の限り結ばれているようであった。緊張した筋肉が小刻みに揺れていた。

 樋上通子は流れる涙を拭おうともしなかった。

「うん」

むずかっていた子どもが、なんとか思い直したのようなトーンと表情を僕に見せた。震えを堪えながら、小さな声で言った。

 僕は彼女に近づき、右手を彼女の肩に軽く置いた。もう一つの手も肩に置こうとして動かしたとき、店のドアーを通してパトカーのサイレンの音が近づいていることに気がついた。


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■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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