ある時、病院の昼食の後のことであった。
その日の昼食は、ハヤシライスに、玉子とポテトの入ったサラダ、それにミカンであった。
僕はハヤシライスが大好物だから、軽くおかわりをした。
食事は、当然入院患者分しか作られないが、ときには食べない人もいるので、余ることもあり、その時は病院の給食を担当している会社の人が、ホールで食事をしている患者に、「おかわりできますよ。欲しい人は来てください」と声をかけていた。
おかわりのハヤシライスを食べ終えて、僕はいつもするように、ディルームの喫煙コーナーでハイライトを吸っていた。
「ユウちゃん。昼ご飯もう食べた?」
樋上通子であった。
彼女は、いつもシンプルなトレーナーとジャージ姿であるが、その時は、白のワイシャツにピンクのカーディガンを羽織り、落ち着いたチェックのスカートをはき薄く化粧をしていた。
「うん。ハヤシライスが美味しかったので、おかわりしたから、おなかがいっぱい……」
僕は胃のあたりを手でさすりながら答えた。
「ちょっと、コーヒーでも飲みに行かない?」
「コーヒー?あのデイケアーセンターの喫茶店?」
「うん。そこでも良いけど、私ケーキが食べたいから、ちょっと散歩も楽しむということで、外の喫茶店へ行かない?」
樋上通子は、屈託のない笑顔で僕を誘った。
「うん。わかった。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
僕は部屋へもどり、ジャージを脱ぎ、チノパンを履きシャツを着込みブルゾンを片手に持った。
「どこに行くの?」とまだ口を聞いたことがなかった男が、ベットに横になったまま言った。
「ええ、樋上さんと街の喫茶店へ行くんです」
「いいねぇ、若い人は。楽しくデート出来て。俺も行きたいよ」
僕は、どう反応していいのかわからないまま、ただ、その男の目を見ながら、黙ったまま笑みを返した。
「俺も付いていっていいか?」
「ええ、よかったらどうぞ」
「冗談、冗談。二人のデートを邪魔するような気はないよ。ゆっくり楽しんできて」と男は言い、窓の方へ寝返りを打った。
「それじゃ、行ってきます」と、その男に言葉を残し、僕はディルームへ向かった。
僕は、待っている樋上通子に「ごめん、待たせて。それじぁ、行きましょうか」と言った。
「うん」
僕たちの初めてのデートであった。
でもデートといっても、とくに気持ちが高ぶるとか、気持ちがはやるとか、そんな感じはまるでなく、極めて淡々としたものであった。
僕たちは、よく磨き込まれた病院の玄関のガラスのドアーを一緒に開けた。
外に出ると、灰色の雲が、何重にも重なり、今にも地上に降りてくるのではないかと錯覚するほど低く立ちこめていた。気分を害し、怒っているような様子であった。
空気がピーンと緊張した趣きで張りつめていた。
「天気が悪いね。今にも雨が降りそうだ。傘を取ってこようか?」
「大丈夫よ。天気予報を見たけど、今日は雨は降らないんだって」樋上通子はなんの動揺も、心配する様子も示すこともなく端的に言った。
「すぐバスに乗っても良いけど、しばらく歩こうか。ユウちゃん」
僕たちは、何人かがまばらに立っているバス停の横を通り過ぎ、市街地に向かう道幅の狭い街道を東に向かって並んで歩いた。
東の空には、僕も何度か登ったことがある比叡山が戦いを挑まれた雲をにらみ返すように悠然としてそびえていた。
しばらく歩いて行くと、病院の中庭の金網のフェンス越しに流れている川に行き当たる。
その川に橋が架かっている。朱色の小さな欄干をつけた、あまり場所に似つかわない橋であった。
僕は何度か散歩の折り、その橋を渡っており、何かいわくありそうな趣きを感じていたが、その橋の呼び名は確かめてはいなかった。
僕たちは、どちらからともなく橋の前で立ち止まった。
「樋上さん。なんかこの橋、変だね。なんて言う橋なんだろう?」
「うん。私もいつもそう思っていたの。名前は目無し橋って言うらしいよ」
「え?目無し橋?へんな名前なんだね。なんか意味ありそうな名前だね」
「うん。おそらく、なにかの逸話があるんでしょうね。私は知らないけど」
僕たちは、その橋を渡らずに、右に曲がった。
川に沿ってつくられている、人が並んで二人しか歩けないような幅しかない道を進んだ。その曲がりしなには三体の目のない地蔵があった。
僕たちは、目を合わせ、言葉のない言葉を交わしながらその地蔵の前に立った。そして、目を瞑り、手を合わせた。
小さな川の向こう側には、まばらな家を縫うように田圃が拡がっていた。
|