保護室の隅に陣取り、人のこころなど粉砕してしまいそうな樋上通子の眼光を受け、僕は思わず、自分の意志とはうらはらに視線を外してしまった。
その後、自分に与えられた役割を咄嗟に判断し、視線の照準をクレー射撃の選手のようにピタリと彼女に合わせた。
しばらくの間、鋭い視線だけの、無言の会話が続いた。
「あんた、何よ。その眼はなによ。馬鹿にするんじゃあないよ」と、樋上通子が口火を切った。その言葉は極めて冷静な響きをともなったものであった。
保護室に拘禁されているにもかかわらず、なおも彼女は死のうとする意志は燃えるようにたぎっているように思えた。
自傷の危険が検察される場合は、病院では患者に一定の拘束具を使用したりする。しかし、その病院では患者の人権に対するポリシーのせいか、それとも一定の精神の安定を維持しているという診断があったためか拘束具は使用されていなかった。
僕は、これから展開される攻防の激しさを想い、たじろぎながら言った。
「樋上さん、落ち着こうよ」
その瞬間、そんな陳腐な言葉しか口から発せられない自分の不甲斐なさに震えが来た。その場を逃げ出したい衝動が襲ったが、改めて自分を鼓舞しながら言った。
「どうして、死のうとするのか言ってくれないか?」
再び、僕らの間で無言の激しい戦いが開始された。僕は、その戦いから抜け出す出口をまるっきり見いだせなかったが、彼女の生命がかかっており、投げ出すことにはいかなかった。
震えるような気持ちを必死になって押さえながら、僕はもう一度言った。
「樋上さん、どうして君は逃げようとするんだ?」
樋上通子の表情はさらに厳しさを増し、ひるまず戦いを挑んで来るようであった……
入院当初、僕は誘眠剤では上手く眠れなかった。
一時間眠っては睡眠から醒め、2時間以上の覚醒が続き、追加眠剤を看護ステーションからもらいそれを飲んでからようやく眠りに入れたが、時期に、又覚醒するという状態であった。
その状態が突然、つまり眠剤の種類を変えたわけでもないし量を増やしたわけでもないのに、5、6時間の睡眠が継続するようになっていた。
でも早朝覚醒は続き、もう眠れないことは分かっていたので、その都度、僕はディルームに行き朝食までの時間を過ごしていた。ディルームに行けば、いつも先に樋上通子が、一人ポツンと椅子に座っていた。
その日も、例外ではなかった。
「樋上さん、眠れないんですか?」
「ああ、ユウちゃん。おはよう」
その言葉に、始めて彼女に出会ったときに感じた“普通らしさ”の色合いは失われていた。
「うん、もう私、生きていく希望なんて失ってしまったから。いつ死のうか。いつ、どうやってなんてばかり考えていて、同じ所を堂々巡りで……」
その声も、生々しい感情の色彩は失われ、コンピュータで処理されているような無機質な響きしか持っていなかった。
僕はなんと反応していいのか全然わからなかった。
「少しでも、眠らないと、身体だって、いや、こころって言うべきなんだろうか、良くならないんじゃあないの」
「いや、もうどうだっていいんだから」
空中の一点を見て、とは言ってもどこというわけでもなかったが、彼女は頬杖をしながら、低いトーンでつぶやいた。
果たして、希望などというものを失ってしまった人間に対して、どうすれば良いのであろうか。激励すればいいのであろうか、でもどう激励すればいいのか。
僕だって、絶望感に襲われたとき、人の言葉など聞きたくもなかったし、ありきたりの激励の言葉などを望んでもいなかった。
(僕は、どうして欲しかったんだろうか)
その時の何かを思いだそうとしたが、無駄であることを知らされただけであった。
生きていること自身が無意味であるという感覚がこころに満ちているとき、僕らは、その人に向かって果たして何が出来るのであろうか。
僕はその答えに行く着くための糸口さえ見あたらず、なんの意識もしないまま、彼女の頬杖の手に僕の手をそっと置いた。
彼女の手がピクリと動いた。
優しい温もりと確かすぎる心臓の鼓動が僕に伝わってきた。
僕は添えた手の指先に少し力を加えて、彼女の手の甲を軽く愛撫した。
樋上通子は、空中の一点に向けられていた視線を外し、テーブルの向かいに座っている僕の眼に視線を移して来て、母親に慰められた子どものような表情を返してきた。
「ユウちゃん。あんたって、優しいんだね。いい人間だね、ありがとう……」
そう言って、椅子から離れて行き、自分の部屋の方へと歩いていった。
僕は振り返って、そのパジャマ姿の背中を、彼女が部屋へ入るまで黙って見続けた。
「田島さん、樋上さんの事、本当に危ないの……がんばって」
寺岡よしえが後ろから、僕の腕を掴み小さく言った。彼女の真剣さがその微かな震えと息づかいから伝わってきた。
樋上通子は、僕を見据えたままで、決して視線を外しはしなかった。
「あんたに、何がわかるのよ。説教するんじゃあないよ」
その精神錯乱のような中でさえ、僕の言葉に的を外すことなく正確に反応する態度に、僕は身体全体に電流が走るのを感じた。
(大丈夫だ、なんとかなる。いや絶対なんとかしてやる)
僕は、なんのためらいもなく保護室の中へ足を一歩踏み込んだ。
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