川は残念ながら、清流というわけではなかった。
でも、濁りはあったが、静かな流れの中にそんなに深くない川底がはっきりと覗いていた。
ところどころに小さいとは言えない石があり、流れがその石にぶつかり、色彩を変化させていた。
「ユウちゃんね。この前、別れた彼のこと言ったでしょう。どう思った? 私って、ダメな女なの。あんなにひどいことをされても、裏切られたって、彼にね、まだ未練があるの。彼への想いが断ち切れないのよ。苦しくて仕方がないの」
樋上通子は、遠くに点描されているまばらに拡がる家々の方に目をやりながら、何かを思い出すような趣きで言った。
「どう言えばいいんだろう。人を思う気持ちって、とても人間的な事だし、思うことで自分の気持ちだって豊かになっていくしね。ただ、それは、お互いの関係の中で、相互に支え合うような間柄が出来ていることが前提なんじゃあないのかな。よくわからないけど、響き合うことも大切な事だと思うし、そうだね、彼の場合は、樋上さんのこと愛してなんかいないんじゃあない? お金のこと、もし彼が、樋上さんのことを思いやる気持ちが少しでもあれば、あんなことにはならなかったんじゃあない。利用されただけだよ」
樋上通子は、僕の言葉を聞いて立ち止まった。一番聞きたくない言葉を聞いたという表情であった。
「ユウちゃん。随分はっきり言うのね。でも、ユウちゃん、少し、私の気持ちだって考えてくれてもいいように思うんだけど……」
僕は彼女に言った、言ってしまった言葉を後悔した。
きっと、彼女は僕に助けを求めたのだ。苦しくて仕方がないと言ったではないか。その苦しさに拍車をかけただけではないか。もっと優しく包み込むようなものが必要じゃあなかったか。その苦しさを軽減してあげる言葉こそ大切じゃあなかったか。僕は続ける言葉を失ってしまった。
「ユウちゃんに彼のこと詳しくは言っていないけど、彼だって私に優しかったことだってあったのよ。私も随分彼に慰められ、救われたのよ。いっぱいいっぱい愛してくれた事だってあるんだから。お金のことだって、彼だっていい加減に考えていただけじゃあないと思う、私をだますつもりだけじゃあなかったんだと思うしね、彼とは楽しかった思い出をたくさん共有してるんだし」
以前何かの本で、恋愛の一つの特徴として、「反立的思考」という言葉を使用して説明してあったことを思い出した。
「反立的思考」とは簡単に言えば、恋愛相手の気持ちに関することで、肯定的な事と、否定的な事が交互に自分の世界に訪れるという事であった。
「彼女は僕を愛している。いやそんなはずはない、心変わりがして今はなんとも思っていなんだ。でもあの僕に対する気遣いは一体なんだ。やっぱり僕のことを思っているんだ」そんな、肯定的な気持ちと否定的な気持ちが交互にやって来るというものであった。
僕は、樋上通子がまさにそれではないかと思った。初めて、僕に彼のことを言ってくれたとき、あんなに責めていたではないか。はっきり彼の裏切りを許せないと言ったではないか。
ひっとしたら、樋上通子にとってその彼だった男は、彼女の生を維持している原動力ではなかったか、彼と共有しているいろいろな思い出が彼女を支えているのではないか、その彼との生活の様々な場面を反芻することで自分の壊れかけていくこころに歯止めをかけてするのではないか、僕はそんなことを思った。
精神疾患はこころの病気である。
科学、医学の進歩は著しいが、残念ながらその罹病の原因は解明されていない。もちろん医学の弛まざる研究の展開は日々行われているのだし、近い将来にきっと医学は、その原因と決定的な治療方法を見つけだすに違いない。
そうすれば、言われなき偏見や差別はぬぐい去られ、精神障害者の光明は切り開かれるに違いない。僕は、そんなことを確信しながらも、その罹病は、人が生きていく中で、そのタテマエとホンネのバランスを崩してしまった事が引き金ではないかと考えていた。
普通、人間はタテマエとホンネを上手に使い分けながら、その矛盾を決して壊すことなく生きていくものだが、精神疾患を罹病する人々は、その統一に失敗した結果のものではないかと考えていた。
その意味では、自分への問いかけがラディカル過ぎて、その矛盾の運動のある一点で、爆発が生じるのではないかと、僕自身の経験も振り返りながら思っていた。
それは、激しい雨によって増水した川が、土手を破り決壊する現象に似ているのではないか。
横溢し激しくこころの襞にぶつかってくる精神の流れに耐えられずにおこる病気ではないか、そんなことを考えていた。
「樋上さん。きっと、その彼との想い出がたくさんあるんだね。でもそれはそれとして大切だとは思うけど、もっと自分のことも大切にすべきじゃあない?済んでしまったこと、過ぎ去って二度と帰ってこないことを追い求めていても仕方がないんじゃあないかなぁ。自分を、迷路に追い込んでいくだけになるよ」
僕は、彼女を何とかして慰めようとして、言葉を選びながらそう言った。
樋上通子は、僕の言ったことになんの反応も見せなかった。
僕たちは黙ったまま歩き続けた。しばらくすると、その小さな川に、手摺りもない粗末で今にも崩れそうな木の橋が架かっていた。
「この橋、渡ろうか」
「うん」
僕たちは橋を渡り、古い、壁さえ所々に剥げている家々が立ち並び、人影さえない道を進んでいった。
舗装もされていないその道を行けばどこへ行くのか知らなかったが、そんなことなんにも気にせずに、比叡の山々を目印に僕たちは、ゆっくりと並んで歩いた。
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