「以前、言ったと思うけど、私、家庭に入るなんて嫌なの。結婚したとしても、男性からは経済的にも、精神的にも自立していたいの。一緒に生きていく人は欲しいけど、それは、私が好きな道を歩いていける自由を認めてくれなかったら、嫌なの。その人のために、うん、どんなに大切な人であったとしても、その人に依存するのではなく、自分は自分の世界を持っていたいの。私は私のために生きていきたいの。結婚だって、恋愛がズルズル続いた結果のゴールなんて考えていないわ。だから職業だとか、そうね、価値観などというものもとても大切だと思っている。私って、どっか変?」
人間の種類を問うとき、強いとか弱いとか、優しいとか冷たいとかを問題にするものだが、あるゆる局面で強い人間などいないと僕は考えていたし、弱いと称せられる人でも、あらゆる状況に弱いわけではなく、時として「あいつが……」などと人を驚嘆させるほどの強さを発揮するものだと思っていた。
優しさなどという正体のつかみにくい人間の属性だって、ときには一変し、獲物をどう猛に追いかける野獣のような激しさを示すものだと考えていた。
それは、僕が精神疾患との闘病の中で知り得たものであった。
純子もその例外ではなかった。
冷徹な思考が、彼女の本質的な傾向性であったが、僕に対して時には激しさも示し、決して妥協を許さない闘争心が横溢し出すことも度々であった。
その一方、他人―それは概して、僕を意味した事ではあるが―に対して、その気持ちとか運命などというものに共感、共鳴するという感情移入の激しさと鋭さがあることを僕は知り得ていた。
そう、純子は、厳しさと激しさの反面、柔軟な感受性を身体中に持っている女性であった。
「うん。自分を大切に出来ない人に、人を大切にすることは出来ないと思うね。だから、自分の世界を持って、それを深く追求していくことは当たり前のことだと思う。自分の感性だとか感情だとかを愛し、つまり自分の個性というものを突きつめながら、夢、いや理想って言ってもいいんだけど、それを追求していくことって素敵なことだと思うよ」
「でもね。ときどきね、わからなくなるの。自分の追い求めているものがなんなんかって。ユウちゃんから見たら、私って、強い人間であるように見えるかも知れないけど、いつでも迷っているの。不安と疑問でいっぱいなの。ユウちゃんとつき合い始めた頃、私、随分強がっていた、自分の弱いところ見せちゃあ駄目なんだって。ユウちゃんを常に激励しなくっちゃあって、自分に言い聞かせていたけど、いつからかなあ、励ましているつもりが、むしろ、反対にいっぱいいっぱいの元気をもらっている自分に気がついた……うん私、何を言ってるんやろ……転職のこと、本当はどうしていいのかわからないの……」
終わりの方の純子の言葉尻は弱く、かすれたまま、僕は正確には聞き取れなかったが、彼女の迷いは十分すぎるほど感じ取れた。
その迷いは、純子自身しか解決できないということを意識しながら、僕に出来る何かを、純子に対して何か支えるというようなことは一体なんなのか、それを反射的に探し求めた。
純子の生きていく道、彼女が追い求めるものは彼女固有の世界に属するものだ。
迷いとか悲しさとか、情けなさとかを感じたとしても、それを僕が代わることは出来ない、僕がその気持ちの在りかを想像出来たとしても、純子の感受性の限りを尽くして体感しながら反応し判断し、なんらかの選択を決定していくことが生きていくということの意味なんだと僕は考えていた。
「迷っているんだね。嫌な言い方かもしれないけど、その迷いが生きていることの証しなんだと思う。人って、何かを求めてさまよう限り、どこかに行き着くもんだと思う。試行錯誤の繰り返しの果てに、その人でしか出来ない何かを見つけだすんだと思う」
「鋭いね。でも、結局、私どうしたらいいんだろうね。ユウちゃん教えて」
「仕事のことについて僕は、どんなことでも提案できるし、僕の考えを隠すつもりなんてない。でも、それは純ちゃんの問題だから。純子の生き方に関わることだから……自分で決めるべきなんじゃあないかな。」
僕は、その言葉が何か純子を突き放すようなニュアンスの言葉であるような気がした。もっと彼女の目線、彼女が棲んでいる世界に近づいて話さねばという思いがして来ていた。
「ユウちゃん。コーヒー飲もうか。」僕の気持ちを察知したかのように、純子は立ち上がりキッチンの方へと向かっていった。最近、純子が使い始めた香水の匂いが僕の身体にまとわりついた。
僕はその匂いを確かめながら、「コーヒーより、ワインでも飲もうか」と純子の方を向いた。彼女はその言葉を待っていたかのように、いたずらっぽい視線を僕に返し、「うん」と言った。
まだまだ二人の話は続きそうであった。
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