飯島純子は職場の先輩、河原健一を待っていた。
場所は、烏丸丸太町を下がったところに位置するホテルのロビー。
入り口の自動ドアーが開くと、落ち着いた、何となくこころを癒す香の匂いが漂っていた。それは上品な香りで、高級そうなものであった。
ロビーと言っても、フロントの真向かいに一列に椅子が並べられただけのものであったが、仰々しくなく都会的でシックな雰囲気を醸し出していた。
純子はそのホテルは初めてであったため、いつもそうなのかどうかは判断しかねたが、ロビーには誰もいなかった。
純子は少しばかり緊張した趣きで、ただ河原健一を待っていた。
「ユウちゃん。以前言ってた、ほら、仕事を変えるということなんだけど、今度、先輩に、河原さんって、私がとても信頼している人なんだけど、その人に仕事をやめるということを相談してみようと思っているの。以前、そのことをユウちゃんに黙ってて、なんか怒らせてしまったから、今度はしっかりと言っておこうと思ってね……どう思う」
僕は仕事は純子の問題だから、自分の意見を押しつけようとも、反対しようとも思っていなかった。
確かに仕事の選択は一生の一大事であるし、嫌なことを続ける意味もないと思っていた。ただ、僕に何も言わずに行動していた事が何となく、僕自身が純子から相手にされていないような気がして嫌なだけであった。
あくまでも、主体は純子である。彼女が今の仕事を続けようと決断したなら、その気持ちを尊重しようと思っていたし、最終的に転職、つまり、出版社への就職を決めたとしたら、それを支えようと考えていた。
「うん、それは、純子の生き方に関わることだし、反対、賛成というより、純子の転職したいという気持ちの底に流れているものを知りたいというという方が強いね」
僕も転職の経験があったが、それは以前の仕事、つまり本屋の仕事が嫌になったというより、やむおえずという側面
が強かった。
人は、過去の中を生きていくなんて出来ないことだ。
時として、過ぎ去っていってしまったことを振り返る事はある。現に僕だって、現金盗難の疑いをかけられたこと、その時の口惜しさ、情けなさ、屈辱的な感情は決して、忘れることはなかった。でも、済んでしまったことは修正出来るものではない。向こうの方に刻まれてしまったもの、決して形を変えることなく佇んでいるものに対して、僕らは無力だ。どうすることもできない。
決して変えられない事に関わることより、自分の力で変えられることに執着する方がはるかに現実的だと、考えるようになっていた。
人生を半分捨てて生きていくというスタイルには、違和感を感じ始めていた。
生き直し。そんな言葉があるのかどうかは知らない。でもそれは、純子との関わりの中で、輪郭のはっきりしたものではなかったが、内からうごめいている確かな衝動、意欲のようなものであることを自覚せざるを得なかった。
自分自身を生き抜こうとする純子のひたむきさをずっと見てきて、知らないうちに僕を捉えた結構、生々しい感情であった。
「ユウちゃんって、私にとって反面教師なの。ほら、ユウちゃんって、一見繊細に見えるし、実際そうだと思うけど、なんか図太さもあって、蹴られても、殴られても、踏まれても起きあがっていく、うん、そんな強さがあるから、私もそれを学びたいって思っているの」
最近、純子はヘアースタイルを変えていた。ベリーショートって言うのだろうか、肩まであった髪を切りつめていた。それが又、純子らしさを引き出している気がしていた。
それは、なにかの意志表示であったのかも知れない。
「わたし、社会の現実とリアルな感覚で向き合っていたいの。今の仕事がやりがいがないという感覚じゃあなくて、それは私らしくないように思うのね。もっと自分に合った仕事があるんじゃあないかって。だから、出版社の人に会ったの。学生のうちから興味があったしね」
なんか今日の話は長くなるような気がした。
僕はおもむろにポケットからハイライトを取り出し、火をつけて思いっきり深く吸い込んだ。
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