僕はナースステーションを離れ、何をすることもなく廊下をただゆっくりと歩いている何人かの患者の間をくぐり、階段を転げ落ちるようにして、寺岡よしえの後を追って行った。
いつもとなんら変わりのない患者たちの談笑する中庭を、寺岡よしえは僕を気にすることなく走り抜け、中庭の北東の隅に植えられている一本の桜の横をよぎり、グラウンドの方に繋がる廊下を走っていった。
その廊下の中程の左側は食堂ホールで、右側は保護室であったが、その保護室に行くドアーを開けた。僕も、少し遅れてそれに続いた。
寺岡よしえは、奥から2番目の保護室の前で立ち止まって、振り返った。そして、声を出すことなく、「田島さん、早く」と、手で合図した。
そこには、僕の主治医の藤木医師と、見たことのない看護士が、半開きになっている鉄扉を身体で押さえながら、厳しい表情で保護室の中の方を見ていた。
寺岡よしえは、小さな声で「先生、連れてきました」と呟いた。
どこで調達したのか不明であったが、果物ナイフで、樋上通子は自分の身体を何度か、えぐるように突いていた。
戦争の業火が空を焦がすような鮮紅の血が彼女の木綿の白いシャツに幾何学的な模様を描いていた。血はベッドにも、床にも飛び散っていた。
彼女は自分の病室の片隅にうずくまるように陣取り、身体の正面でナイフを両手で握りしめ、その刃先を自分の喉元近くに向けていた。
入り口の近くには、真剣な眼で、一心に樋上通子を見つめる藤木医師の姿があった。その横には寺岡よしえと看護士2名が興奮した気持ちを隠しきれないような趣きで身構えていた。
その4人を取り巻くように、彼らの表情とは対照的に、何事も達観した評論家のように落ち着いた観客となっている患者が5、6人いた。
「樋上さん落ち着いて。落ち着いて」寺岡よしえが呼びかける。
樋上通子の喉元に突きつけられたナイフが、震える手とともに何度か彼女の喉と胸の間を弱く往復した。
静かに、微かな血が胸元へと流れていた。
「樋上さん。そんな事したって、なんの意味があるんだ。やめなさい」
藤木医師が叫んだ。「ゆっくり、話し合おう。自分を傷つけちゃあ駄目だ」
「なによ。先生だって、看護婦さんだって、私のことなんかなんにもわかっちゃあいないじゃない。もうどうでもいい……」
樋上通子は、何かに挑むような鮮烈な眼差しを藤木医師に送った。
それは、生きていく意志が何かによって粉砕され、命を繋ぎ止めていく方法を失ってしまい、死へのたどたどしい彷徨で最後の身の証しを立てようとする構えが見事に浮き彫りされている様相を示していた。
間違いなく、彼女は死のうとしていた。
鬱状態のとき、何かが自殺祈念のスイッチボタンを押してしまう。
心の底を鈍器でえぐられるような、正体不明の痛みに耐えられなくなってしまい、ブレーキがきかなくなり、時として、理解不明の自殺が訪れるのを藤木医師は良く知っていた。
彼が治療していた外来患者が、規則正しく通院し、処方した薬も服用していたにもかかわらず、理由不明の自殺をし、全身の力が抜けてしまうような無気力感におとしめられたのは、そんなに古い話ではなかった。
藤木医師は、樋上通子の行動は決して狂言ではないことを直感的に理解するとともに、医師としての危機意識としてではなく、一個の人間としての良心のようなものから彼女を救おうとしていた。
「樋上さん。僕の言い方が悪かったかもしれない。でも、あなたの病気は治るものだし、僕も全力で治療しているんだ。わかって欲しい」
「だって、言ったじゃない、いつ退院できるかわからないって。私の状態は良くなっていないって。一生、ここに閉じこめておくつもりなんでしょう」
そう言う樋上通子のナイフを持った手は、小刻みに震えたまま、喉の1センチ手前に構えられていた。
「嘘をつかないで、本当の事を言ってよ。私、騙されないわ」
「なにを言っているんだ。僕は、あなたに嘘をついた事なんて一度だってない。冷静になるんだ」と藤木は言って、樋上通
子の方へ向かって一歩踏み出した。寺岡よしえと看護士もそれに続いた。
「近寄らないで。こっちに来ないで」
樋上通子は、自分の病状に対して、絶望していたわけではなかったし、藤木医師を自分を救ってくれる唯一の人であるかのように信頼もしていた。だから、毎日の何も変化のない生活も治癒していくための避けられないプロセスだと納得し、耐えていた。
しかも、他の入院患者の何割かの人のように病院にいる生活に従順になるというより、一日でも早い退院を果
たすことをいつも考えていた。
彼女は、たどたどしくではあったが、自分なりの方法で病気と闘っていた。退院する日を心に描き、病院の生活に馴染んでしまうことを最も忌避していた。
それだけに、その日の診察で、藤木医師の「退院はまだ、いつになるかわからない。そんなにあせらないでください」という言葉が彼女のこころをキリキリと痛めつけた。
「私は、もうなおらないんだ。ずっと、ここにいなければならないんだ」、そんな感情がこころを締め付けてくることに防御の方法を見いだせない自分を見て、突然、生きていくことに終止符をつけてしまいたい衝動にかられた。
「樋上さん。私を信じるんだ。そして、自分を信じて。さあ、ナイフを捨てて」又、一歩、藤木は樋上に近づいた。
「来ないで。私のことはほっといて。先生は私のことなんかどうでもいいんでしょう。もう生きていたって意味なんてないんだから」
藤木は、樋上通子の消えてしまいそうになっても、完全には消失していない生への意志力を信じるほかになかった。
これ以上近づいていくと、取り返しのつかない状態がくるかもしれないという危惧と闘いながら、彼女の眼をじっと見据え、その対置している距離を少しづつ縮めていった。そして、意を決して樋上の持っているナイフめがけて飛び込んだ。
「やめてー」と言う声と共に樋上は最後の力を振り絞って、ナイフで自分の喉を突き刺そうとしたが、その一瞬藤木の手が彼女の腕を取り押さえ、彼女の意志を砕いた。
それと同時に、看護士2名が素早く動いた。寺岡よしえは予め決められていたかのように、看護士と藤木が樋上通
子を押さえている間、まるでアーチストのように素早く注射を打った。
激しく抵抗していた樋上通子は意識を失い、ぐったりとした。
保護室の奥の方に、僕の知っている樋上通子とはまるで違った女性を見た。彼女の顔は夜叉のようであった。その人とも思えない鋭い眼が僕の身体を突き刺した。
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