川の向こう側へ
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☆4/16更新☆
第23回

 清風第二病院は市街地より、かなり北の少し高台の窪んだ所にあった。玄関の東側には、小さな川が流れ、その向こうは竹林であった。

 玄関の前は綺麗に整地された広場が展がり、いつも、入院患者の面会に来た人のものであったであろうかかなりの台数の車が駐車していた。

 病棟の1階の窓を遮るように様々な木々と花々が植えられていたが、植物の名前に疎い僕は、それらの種類、名前はわからなかった。

ただ、通用口の入り口の左右に植えられていた大きい椿の木だけはわかった。

 二人そろって玄関を出た僕と上田浩二は、その窪地をゆっくりとした足取りで上がって行った。

窪地を上がって間もなく行くと、道は三叉路になる。まっすぐ行くと、神社に行き当たり、さらに、その神社の横の車一台が通るのが精一杯の狭い坂道を5分程進んでいくと、清風第一病院に行き当たる。

 三叉路を左側に行くと、清風第二病院の職員の社宅が2棟あり、どっかの会社の独身寮もあった。その社宅の横には、病院の食事を調理している会社があった。そして道をそのまま、まっすぐ行くと、市街地に通じているバス通りに出る。

 僕は、一回も通ったことのない三叉路の右側の道を、上田浩二と共に歩いて行った。

まもなく行くと、道は二手に分かれていた。道は山を切り開いたような趣で、左手は山の黒ずんだ地肌が見えていた。右手の道の向こうには、民家が建ち並び、その間に野球ができそうな結構大きいグラウンドが見えた。

「あのグラウンドは病院の持ち物なんだ」

上田浩二は、右手の下の方にみえるグラウンドを指さして言った。

「病院ではね、年中行事のようなものがあって、春には、遠出のハイキング、夏には花火大会、秋には、バイキングパーティ、冬には、クリスマスと餅つき大会などがあるけど、その花火大会とバイキングパーティはあのグラウンドでやるんだ。参加は自由だから、全ての入院患者が参加するというわけではないけど、結構楽しみにしている人がいて、50、60人の人が参加するんじゃないかなあ。それから、不定期だけどカラオケ大会などもやっているね、花火大会とカラオケ大会には、そんなに大げさなものじゃないけど、たこ焼きとか、焼きそばとかの出店もでるみたいだ……俺は参加したことはないけどね」

「へえー、その参加は有料なんですか?」

「うん、ただではなかったと思う。いくらだったか正確には覚えていないけど、300円とか400円とか、そんな少ない金額の参加費だったと思うよ……もうすぐ遠出のハイキングが企画されるんじゃないかなあ……」

 僕は精神病院に入院するまでは、そこでの患者の生活など考えもしなかったし、想像をしたこともなかった。でも、入院してその現実を眼にして、入院患者の行動とか生活態度とかも、普通の人たちとあまり変わらないということを知った。同時に、病院側が、入院患者に何かの強制的な規律を求めているのではないかという根拠のない想像をしたこともあったが、彼らも僕も完全に「自由」であり、一日24時間の時間はすべて自分のものであった。

 精神の疾患を除けば他にどこも悪いところはないわけだから、一日の生活に変化を持たせることは大変だということも解った。

勿論、この病院の何人かの人に対して、一体どこが悪いんだろうという疑問を持ったし、それ以上に、精神の疾患などというものの実体についても、僕自身のことも含めて、その原因と症状の特徴など理解の範囲を越えていたのも事実であった。

そうした病院が企画するレクレーションの数々も、疾患から立ち直る、快復するための技法、療法ではないのだろうかなどと想像したが、事実は確かめようがなかった。

「あのグラウンドの先に、白っぽい3階建ての建物が見えるだろう。あれが、さっき言っていたディケアーセンター。べつに、病院の施設を説明する訳じゃあないけど、二つの精神病院と老人保健施設、それから、痴呆老人を専門に治療する施設も経営しているみたいだね」

上田浩二は、病院に関して何でも知っているかのような印象を僕に与えた。

病院の施設関係の上田浩二の話を聞いていて、僕はここの地域全体が人間を癒す「医療村」ではないかと思った。

 ここに入院して初めて知ったことだが、バス通りを境にするように、清風第二病院の反対側にも精神病院があった。だから、この狭い地域のなかに、合計三つの精神病院が経営されてるということなる。

僕は、この土地に関して何の知識もなかったが、この地域は、精神を病む人々にとって、歴史的に特別の意味が形成されてきた場所ではないかなどと思った。

 精神疾患がいつの時代から人間を蝕んできたのか、どのくらいの罹病率なのかなどという知識はまるっきりなかったが、過去において、薬も治療方法も未発達であったことは容易に想像できた。その時代においては、精神疾患は不治の奇病として人々から恐れられてたに違いない。そして、治療という側面より、収監することが主要な措置であったのではなかろうか……そうした役割をこの地域が担っていたのではないか……そんな感慨が心を掠め過ぎった。

 右手に散在する民家と削り取られたような山肌の間の窮屈な道をまっすぐ歩いていくと、やがて民家は途切れ、広い原っぱに出た。平地からはかなりの高台である。

 僕たちは、原っぱに腰を下ろした。所々に背の小さい黄色と白の花が咲いていた。

普段では、何の気持ちもおきなかったであろうが、精神病院への入院という非日常的な出来事のせいであったのであろうか、その名もなき花たちの生きている姿に自分の心境を重ねながら、妙な共感、連帯感を味わうこととなった。

「田島さん、こんな事聞くべきじゃないかも知れないけど、今回の入院はどんな事が原因だったんだろう?いや……いいや、そんなことどうでも……俺だって……」

上田浩二は眼下に広がる家並みの上空に目を据えながら、何かを思い出すように言った。

「いや、いいですよ。違った人だったら、そんなに気を止める事じゃなかったのかも知れないけど、お金が絡んだ問題、職場での現金紛失で僕が疑われてしまって、色々な追求で気が滅入ってしまって、まあ、先生には言っていないけど、それにいくつかの問題も重なって、眠れなくなり、現実が現実じゃないみたいな変な精神状態になったんですよ」

「俺、精神病のことは全然解らないけど、今は、良い薬があって、精神安定剤っていうの?それで、結構治るみたいだね。親しかった同室の人だって、2カ月もしない内に自分を取り戻して、元気に退院してしまったしね。田島さんの場合もすぐなんじゃない。俺なんか、治らない病気だから……主治医の先生だって、ある意味では、アル中は精神病より難しいって言ってたし……」

サングラスのため、表情は解らなかったが、上田の辿ってきた並々ならぬ体験の細々とした出来事を黙考しているかのような感じが見て取れた。

年令は50を越えているので、ひっとしたら60も近いかも知れなかったが、一言では言い尽くせない体験が心の中に一杯詰まっているに違いない。

僕は、アルコール依存症がどれだけ深刻な病気であるのかを実感が出来なかった。

ただ、上田の心底に隠し持った悲しみを、脳に刻み込められた苦しみを全て吐き出してしまい、身体の深いところから発せられる酒への欲求、そして激しい誘惑を断ち切らなければ、彼の新しい出発は出来やしないと思った。

「俺、別に酒を飲んだって、おいしいことなんかないんだよ。おいしいから、飲むんじゃなくて、だだ、惰性で、いや惰性と言うより、身体のどっかに巣くっている邪悪なやつが、俺の意志を越えて、勝手に動き出すんだ……酒を飲め、酒を飲めって。命はまだまだ欲しいし、断酒は何度も誓ったんだけど、やつに勝てないんだよ……病院にいるときはいいんだけど、退院したら元通り。そう、やつと一緒に死に向かって一途に進んでいる感じ……一体どうすればいいんだか……医者もこのままだったら、もうだめだと言うし」

 上田浩二の独白はリアルであった。

でも、僕は彼のストレートな言葉に対して、全く無力である自分を知らされるだけであった。

医者から、アルコールの怖さはいやというほど聞かされているに違いなかったし、死と隣り合わせの生活を余儀なくされても、なおも酒への誘惑を断ち切れないでいる心象は、僕の理解を超えていた。

死に繋がるトンネルの入り口に立たされても、引き返すのではなくあえて進もうとする邪気。

トンネルを越えたら、死への一里塚が待っているとわかっていても、アルコールの前で逡巡するその精神の脆弱性。

 僕はそれを決して馬鹿にすることは出来なかった。彼の苦悩のダイナミズムは決して理解することは出来なかったが、何故か彼をずっと見続けたいような感情が心の片隅に芽生えた。

その瞬間、僕は、意味もなく彼の手を強く握っていた……



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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