僕たちは、深夜12時すぎに「フォルキー」を出た。
僕がバーボンを5杯、純子はカクテルを3杯飲んでいたので、ほろ酔い気味で、気分は爽快であった。急な、少し傷みがきている階段を、僕たちは重なるようにして降りていった。
裏通りを下がり、元来た道を反対の方向に歩いて行った。
純子はビルの階段を降りると同時に、腕を絡めてきた。歩くたびに、そう大きくもない純子の胸が、僕の二の腕を柔らかく押した。
12時を回っても、木屋町の人通りは絶えていなかった。
木屋町が不夜城になったのは果たしていつ頃からであったのであろうか。僕の記憶は定かではなかったが、帰り道を忘れてしまったかのように、個性的なフッションをした若い男女がゆっくりと通りを歩いていたり、シャッターが閉まった店の前で、たむろしていたりした。
僕たちは、帰りのタクシーを拾うために三条通りに向かって歩いていった。所々にストリート・ミュージシャンが一日の路上ライブを終え、帰り支度をしている光景に何度も出会った。
「ねえ、ユウちゃん。ストリート・ミュージシャンって、このあたりに何人ぐらいいるんだろうね?」
「さあ、何人ぐらいだろう?5、60人位はいるんじゃない」
「ねえ、今度、彼らの音楽をゆっくりと聞いてみない?」
「うん、機会があればね」
たわいのない話をしている内に、河原町三条に着いた。僕たちは河原町三条を少し上がったところのタクシー乗り場からタクシーに乗ろうとした。15台位の空車が客待ちしていた。タクシーに乗ろうとする人は誰もいなかった。僕たちは、全然待つことなく、タクシーに乗り込んだ。
寺岡よしえの僕に対する会話は完璧なものだった。
正確な看護理念に基づいた患者へのケアーは見事と言うしかないほど、つぼを得たものに感じられた。
精神病院での様々な状況に一喜一憂する僕の精神の脆弱性を軽やかにサポートしてみせた。
彼女は、僕に対して、何か励ましの言葉をかけた訳ではなかったが、中庭のベンチでの会話を通じて、僕の閉ざされ、鈍い痛みを放つ心が程良く癒されていくのを感じた。
寺岡よしえの僕に対する態度に感謝しながら、階段を登っていき、部屋に戻った。
同室の患者たちは、なにをするともなく、ベッドに横臥していた。僕は、同室の上田浩二としかまだ口を聞いたことがなかったが、依然として、彼らに話しかける言葉を思いつかなかったし、誰からも声をかけられなかった。
上田浩二は部屋にはいなかった。
僕は、彼らと同じように鉄格子の窓の方に向かい、横臥した。そして、そのまま寝入ってしまった。
しばらくして、浅い眠りから覚めると、ベッドに座り、新聞を読んでいる上田浩二の姿があった。
病院での時間はゆったりとしか進まない。本当にすることがない。僕は、別に何を話すいうこともなく、上田浩二に声をかけた。
「どっかに、行ってたんですか?」
彼は、読んでいた新聞をベッドの上に置き、僕の方に向きながら、口を開いた。
「あー、喫茶店でコーヒーを飲んでいたんだよ」
「あーそうですか。どこの喫茶店でですか?」
「うん、病院の中の喫茶店……病院のディケアーセンターの中に患者たちが運営している喫茶店があるんだよ。そこで、コーヒーを飲んでた。値段も120円で安いし、まあ、インスタントのコーヒーよりもましだからなぁ……」
「ディケアーセンター?」
「聞いてなかった?病院棟から2分位行ったところにディケアー専門の3階建ての建物があって、まあ、精神のリハビリとでも言ったらいいんかなぁ、絵画教室、スポーツが出来るエリア、陶芸教室、カラオケルームなどがあって、退院した人たちが、自由に活動出来るエリアのこと……勿論入院患者もそこを使えるんだけどね……」
「じゃ、僕でも使えるんですか?」
「あー、主治医の判断と指導さえあればね。まあ、今度行ってみれば、すぐに様子は解るよ……それより、診察があったんだろう、どんな具合だったんだ?まあ、俺だって、いろんな患者を見ているから、あんたの場合は、そう重い状態じゃないことぐらいは解るんだけど」
「ええ、ありがとうございます。しばらく様子を見ようということでした」
「世間の雑事のことなんか、すっぱりと忘れて静養すればいいんだよ。精神病院のこと世間じゃあとやかく言うけど、なんにも気にすることなく、毎日ゆったりと過ごせば、びっくりするほど快復するさ」
「ええ……あのー聞いて良いですか?」
「なにを?俺には何の秘密もないから、聞きたいことがあったら、聞けばいいさ」
「上田さんって、どんな病気なんですか?見たところ、どこも悪くないように感じるんですが……」
「入院しているから、病気であることは間違いないさ。アルコール依存症、いわゆるアル中。人が一生に飲むアルコールの量の2倍も3倍、4倍も飲んでいるんじゃないかなぁ、幻覚が突然襲ってきて、右往左往するし、肝臓だって、もうボロボロ、何回も死にそうになって、生命力が強いんかなんか知らないけど、死なないで、そのたび、病院を行ったり来たりの生活さ。自分が悪いんだから、誰も恨むわけにもいかないしさあ、まあ、酒に救いを求める自分の弱さにへきえきしているところさ。だから、きっと畳の上では死ねないだろうね、どっかで、寂しく野垂れ死にさ」
上田浩二は、全ての希望から見放されているかのような、表現しようのない寂しさを浮かべ、自嘲気味に言い、両手の拳で自分の頭を何度か叩いた。
僕は、慰めたり、なんとか激励しなければいけないという想いに囚われながら、言うべき言葉を見つけることが出来なかった。
「どうも、すみません、いやな事を聞いちゃって」
「田島さん、別に謝ることはないさ。まだ、晩飯の時間には間があるから、散歩でもしようか?」
「ええ」
僕たちは、病院のルールである、外出届けに外出時間と、その目的、帰院予定時間を記入し、看護ステーションへ行き、それぞれの担当看護婦に提出した。
僕の担当看護婦の寺岡よしえは、外出届けを受け取り、「田島さん、気をつけてね」と、例によって、友人であるかのような笑顔で言った。
僕たちは、1階の玄関に向かって、階段を二人で降りて行き、玄関の透明なガラスのドアーを押した。 |