川の向こう側へ
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☆3/19更新☆
第19回

 看護婦の寺岡よしえに支えられ、僕は廊下をどこへ向かうともなく、歩き始めた。

先ほど世界の終わりの方向に組み込まれているように感じていた廊下を、寺岡よしえとともに歩き始めた。

「田島さん。部屋に帰って横になっていても良いと思うけど、少し気分転換のために、中庭のベンチでお話でもしましょうか?そのほうが空気もおいしいし、落ち着けると思うから」

寺岡よしえは、僕の身体を支えたままゆっくりと歩きながら、以前そうであったように友人のような笑顔を見せながら言った。

口元からは、綺麗に並んだ白い歯が見えていた。

ただ、僕は彼女の発した言葉を完全に理解できなかった。声は確かに聞こえるのだが、その声の内容を一つの意味として再構成することが出来なかった。

(彼女は、僕に何を言ったのだろうか?……)

 診察室を出て、間もなくしてから見えていた幻惑的な世界から、僕は脱しきれずにいた。

僕の心は非現実の世界をさまよい、現実と現実ではないものとを峻別する意志と能力を逸していたようであった。

別に、それに不都合や恐怖を感じてたわけではなかったが、この世にあって生きているという実感とリアルな感情が損なわれ、寺岡よしえと連れ添って、現実と異なった所へ行くんだなどという、そう強くもないが不思議で幻惑的な感覚と陶酔的な想いに囚われてい た。

「寺岡さん、僕たちはどこに向かっているんですか?」歩くというより、弱々しく足をひきずるようにして進みながら僕は言った。

「田島さん、しっかりしてください。中庭に行くんですよ」と彼女は右手で軽く僕の頬を何度か叩きながら、いたわるような語調で言った。

「どこの中庭なんですか?その中庭はどこにあるんですか?」

「病院の中庭です。大丈夫ですよ。私がここにいますから。田島さんを私が中庭に連れていきますから……」

 僕たちはゆっくりとした足取りで廊下を進み、階段の一段、一段を間違いなくそれが階段であることを確かめるようにしながら、二人三脚で下りていった。

「さあ、一階ですよ。フェンス寄りのベンチの方に座りましょうか」

僕たちは、二人三脚の競技を続けるようにして、花壇の間の踏み石の上を歩き、ベンチに座った。

ベンチに座ると、フェンスの向こうの竹林の葉音とともに、現実の世界が僕の目の前に拓けてきた。テレビのスイッチをつけたみたいに、一気に診察風景が眼前に蘇ってきた。

僕は、診察で藤木先生から言われた壁を少しづつ崩していく行動と勇気の大切さとその意志をしっかり持つことの必要性と価値について想いを巡らした。

(何を動揺しているんだ……ここの病院で少し休憩すればいいんだ、死に至る病気じゃないんだから、病気を大らかな気持ちで包み込んでしまえ……ちょっと精神のバランスが取れなくなっただけなんだから、サァ、しっかりしろ……)

「しっかりしてくださいね。大丈夫ですから……藤木先生の診察はどうだったんですか?」

「うん、決して状況を楽観してはだめだけど、あせらずゆっくり身体を休めろということだった」

「入院は長くなるの?」

「いや、長くなるとか短いとかに関してはコメントはなかった、病名についても確定的なことはなくて、しばらく様子を見ようということだった」

「だいじょうぶですよ。田島さん、表情や言葉で、経験から解るもんだけど、他の患者さんよりもしっかりしているから。生活のリズムさえ取り戻せば、びっくりするくらい快復すると思いますよ。あーそうだ、何か飲みますか?私、買ってくるから」

「うん、ブラックコーヒー」

「ブラックコーヒーね、わかった。じゃ、買ってくるから少し待っていてね」

寺岡よしえは、僕の膝を右手でポンと叩いてから立ち上がり、一階の待合室の近くにある自販機の方へ向かって歩き出した。

僕を何とかして落ち着かせようとする、彼女の軽やかな意志がその背中からも溢れていた。

僕は、彼女の細やかな気配りに言いようのないありがたさを感じながら、優しさのようなものを彷彿させているその背中をじっと見つめていた。

しばらくすると、彼女は両手に飲み物を持ちながら帰ってきた。

「田島さんって、ブラックコーヒーが好きなんですか?」

「うん、コーヒーそのものの味が好きだから、ミルクも砂糖も入れずに飲んでいるけどね」

「私は、コーヒーを飲むときには、ミルクも砂糖も両方使うけど、コーヒーを本当に好きな人はブラックなのかも知れないね」

「うん……寺岡さんはこの病院長いんですか?」

「長く勤務されている先輩がたくさんいらっしゃるから、とても長いなんて言えないけど、ここに来て、5年にはなるかしら。看護という仕事は奥が深いから、まだまだ未熟だけどね。それでも、未熟なりに患者さんには誠意を持って接するようにしているつもりだけど、患者さんはどう思っているんでしょうね?」

「何才なんですか?」

彼女は少しいたずらっぽい表情を身体全体に浮かべながら、「女性には年を聞いてはだめだって、誰かに習わなかったかしら」と、両手で僕の左腕をつかみながら言った。

「ああ、ごめんなさい。答えたくなかったらいいけど……」

「そうね、別に恥ずかしいことじゃないからいいけど。今年で31才になるわ」

「結婚しているんですか?」

「いいえ、一人よ。でも、結婚してたって言い方が正確かな、23才で結婚して26才で離婚したの。だから、今は一人よ」

「でも、どうしてそんなことを聞くの?」

「どうしてって、言われても……」

僕は答えに窮した。何気ない薄い化粧と快活に働く姿に仄かな好意を持っていたからそんな質問をしたのかも知れなかったし、ただ単に会話の話題として聞いただけかも知れなかった。いずれにしても、彼女のどうしてという質問に明快に答える言葉を用意できなかった。

僕は行き場のない感情に支配され、何となく恥ずかしさを覚え、思わず顔を伏せた。

「あー、田島さん照れているな、純情なんだ」

彼女の言葉が、僕の恥ずかしさに追い打ちをかけ、顔が赤くなるような気がしたが、その気持ちを振り払うようにして言った。

「看護の仕事ってやりがいありますか?」

「看護の仕事?うーん、高校2年の時から、看護婦になろうと決めていたから、改めてやりがいとかは考えたことはないわ。でも、それが私に出来る唯一の仕事だと思っている……ほら、看護って一言で言うけど、多様な仕事を要求されるし、看護技術も磨いていかなくてはいけないしね。私なんか、まだまだね。看護の基本は、病んでいる人、それはどんな病気でも同じだと思うけど、その病んでいる人の治癒過程の全般に深く関わっていくことだと思うのね。患者の治ろうとする意志をサポートするとともにあらゆる援助を施し、身体全体のケアーをしっかりと行っていくこと、その病気の治療過程の一つひとつに関わっていく行為をきめ細やかに実行していく、それが私の仕事。やりがいって言うよりか、人間の尊大な生命活動に激しく関与しているから、いい加減な心と態度では勤まらないの、そうね、だから緊張の連続よ。だから、仕事が終わったら、まるっきり違ったことをしている、スポーツをするとか、映画を見るとか、お酒を飲むとかね。そうしないと、そうね、適当に遊ばないとおかしくなっちゃう。答えになっているかしら」

 寺岡よしえの言葉を聞いて、僕の生きていく姿勢というか、仕事に対する考えの浅さを恥じざるを得なかった。果たして、人に披瀝する労働に関わる思想を持っているのだろうか?なにもない。食べていくお金を稼ぐという位置づけしか持っていないのが、僕の貧しい思想であった。だから、彼女の看護への明快な姿勢を聞いた後、それに続く言葉を見いだすことが出来なかった。

「部屋に帰る。ちょっと疲れたから」

「そうね、戻りましょうか。顔色も随分良くなったみたいね」と言って、彼女はごく自然に僕の手を取り、ベンチから立ち上がるのを促した。

「あの、大丈夫だから、部屋には一人で帰れるから」

僕はうつむき加減で、呟くように言った。

 闘病生活は始まったばかりであったが、気負いもせず、病気を素直に受け入れて、入院という生活環境にも慣れることが必要かも知れない……そんなことを漠として考えながら、僕はベンチから立ち上がり、寺岡よしえに「ありがとう」と言った。

 何気なくフェンスに向かって振り返ると、竹林の手前の小さな川の土手横に、淡いピンクのバラが健気な姿で一輪咲いているのに気がついた。



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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