川の向こう側へ
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第17回

 3階の第1診察室での藤木医師との面談ー面談ではなく、診察又は問診と言わなければならないのだが、それは僕が何となく想像していたものとは異なり、面談、試問などと言った方が事実により近いように感じるものだった。

  何か、人生相談を受けているような感じで、診察されているという感覚は持てなかった。

 藤木医師は精神科医として、その問診を通じて、僕の精神症状について何んらかの診断を下したのであろうが、僕が初めにこころのなかに構築した対決姿勢と呼べるようなものを簡単にほぐしてしまう問診技術は、なにか人生の先輩との会話をしているような錯覚を与えるものだった。



 「田島さん。その現金盗難事件のあなたに対する追求で、どんな気持ち、どんな精神状態になったんですか?出来るだけ具体的にお話ししていただけませんか」

「ええ。初めのうちは、当然盗っていないわけですから、理路整然と、そう、わりと落ち着いて、現金の盗難を否定していたんですが、何日も追求が続き、同じようなことを何度も何度も聞かれるうちに、一回目、2回目の話と、質問に対する僕の回答のことですが、その話が矛盾じみたものとなって、矛盾した話に矛盾を重ねるような展開になったんです。そこを、調査委員会と称する人たちに集中的に聞かれて、回答に窮することも度々ありました。その調査委員会の人たちとの戦い、ええ、僕にとってそれは戦いと言ったほうがニュアンスとして正確のような気がしています。その戦いが終わって、僕が書店の通常業務に戻ってからも、彼らの僕に対する追求の言葉の一つひとつが残響として頭の一隅を回り続けるようになりました。蜂が頭のなかを飛び回っているような気がしました。その言葉の残響、特に、彼らの僕が質問に窮した際の言葉と僕自身が対話するような感じで精神が休まらない状態がやってきました。仕事が終わって、アパートに帰ってからも、彼らの言葉は回転を止めないメリーゴーランドのように僕の頭のなかを支配するようになりました。寝る時もそれは続き、僕の睡眠は完全に遮断されてしまいました。僕は一切眠ることが出来なくなりました。口惜しいやら、情けないやら、又、腹立つような……そのうち、夢心地って言うんでしょうか、だんだん、僕の周囲から現実のリアリティが奪われてしまい、体に力が入らず、宙に浮いているような、そう、浮遊感覚に襲われるようになりました……そうですね、僕の体や僕の精神が僕のものではなくなり、魂のようなものがよそよそしく空中に存在していて、なんか肉体を離れてしまったという不思議な感覚でした。肉体と空間と言葉の正しい関係が失われてしまったような」

「睡眠は一切取っていなかったんですか?」

「ええ、これではだめだと思い、なんとか寝ようとしたんですが、彼らの僕を責めたてた一連の言葉が部屋の空間に充満し、眠ろうとすると急降下して来て、僕を襲い、責め立てました。何度眠ろうとしてもその繰り返しでだめでした。その言葉たちが僕を休めさせてくれませんでした」

「自分の周りのことが、リアリティを失ったという意味のことを言っていましたが、自分が思考している、又は意志を持って様々な行動をしているという感覚はどうだったんですか?誰かに動かされているという感覚はありませんでしたか」

「そうですね、忘我自失というようなことはありませんでしたねぇ」

「では、他人に命令されているような、あるいは自分ではない誰かの声が聞こえてきて、それに動かされているという感覚はありませんでしたか?」

「幻聴というやつですか?それは、ありませんでした。だだ、現金盗難事件のことなんか、もうどうでも良いような気がするとともに、そうですね、さっき言いましたが、事情聴取をされていた時間のなかで、突然、これは、なにか特別な実験ではないのか、僕という人間がどういう人間なのかを、何かの事情で調べられているのではないかという感覚に襲われました。先ほど、言いましたが、現実のリアリティが奪われてしまい、映画のワンシーンの撮影でもされているのではないか、などとも思いました」

「それは、うっとうしいような気分をともなったものではなかったですか?」

「ええ、うっとうしいというより心臓が締めつけられるような、多くの人の、調査委員会の人たちのことですが、その追求のの厳しさで、そうですね、気分が地面に叩きつけられるような痛みがあったり、極度の興奮が生じたり、いらいらしたりして、それから、気分が重々しくて気が晴れないような感覚もありました」

「そうですか。全体として沈鬱な気分だったと言うことでしょうか?」

「チンウツ?」

「ええ、自分の体が何か借りものであるような感覚が訪れて、気が晴れなくウツウツした精神症状が続き、体が浮遊しているような状態のなかで、いろいろな出来事が現実性を失ってしまったと言うことですね?」

「ええ、まあ、概略的に言えば、そんな感じです」

「先生、僕は病気なのでしょうか?どんな、病気なのですか、はっきりと教えていただけませんか?」

「まあ、そんなに短絡的に決めつける事は出来ません。調査委員会の様々な追求の激しさと身に覚えのない疑いを掛けられた理不尽さに対する気持ちの動揺で、精神が疲労しきり、通常の生活リズムも崩れ、睡眠リズムも破壊されてしまった結果陥った離人症的傾向ではないかと思われます。ただ、それだけではなく、躁鬱的な感じも見られますね。その症例の境界状況にあるように見受けられます。いずれしても、もう少し経過を見てみる必要があるかと思います」

「それでは、症状は軽いと言うことでしょうか?」

「いいえ、あまり病気を、病気というよりも陥った精神症状を甘く見ない方がいいですよ。ここの病院には、友人と一緒に行かれた病院から、麻酔剤を使い、タクシーで移動して改めて入院してもらいましたが、意識の混濁と一定の精神錯乱が見られましたので、一時保護室に入ってもらった次第です。でも、気がついたら、落ち着きが見られましたので、すぐに開放病棟に移ってもらったというわけです。今の診察の段階では、意識の混濁も精神の錯乱も認められませんが、かなり、意識の高揚があるようです。あなた自身が気がつかない状態で躁鬱病の疾患が以前にあったかも知れません。いずれにしても、先ほど言いましたように、しばらく、経過を見ましょう」

「先生、僕の入院は長くなるんですか?」

「田島さん、焦りは禁物です。気持ちをおおらかに持ち、ゆっくりと静養してください。それから、精神病院にはいろいろ社会から誤解、偏見がありますが、ここに入院したことをあまり悲観的に考えないでくださいね。私は、あなたの味方です。これからも人生長丁場です……どんな人間でも厚い壁の前ではたじろぐものです。その厚さは時として人を圧倒してしまうものですが、その壁を少しづつでも崩す行動と勇気とを持つか持たないかで人間の価値が左右されるものです。辛いということで、気が済むまで泣き叫んでもいいですし、それが、格好の悪いことだとは、私は少しも思いません。でも、決して壁を崩していく姿勢と努力は放棄しないでください。それは、泣き叫ぶことより、ずっとぶざまです。ここへの入院は一時期の決してダメージのない休憩だと思って楽観的に考えてみてください。大丈夫です。壁は必ず崩すことが出来ます。それでは、以上で診察は終わりです」

 そう言うと、藤木医師は診察が始まる最初の時と同じように、絶望から果敢に立ち上がった人のような余裕のある笑みを見せ、静かに僕の肩に細い手を置いた。その時、一陣の風が僕の髪をサッと揺らした。風は野の花の香りを僕に届けた。

 何か、大きな人間の意識と想像を越えた自然の大らかな摂理と体系が僕を励ましているように感じた。

「先生、どうもありがとうございました。」

 僕は椅子から立ち上がった。

 ドアーの外で、友人たちが楽しく談笑している声が聞こえてきた。

 僕の顔に自然と笑みが宿った……

 僕は最近あまり感じたことがない溌剌とした気分でドアーのノブを右にゆっくりと回した。



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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