川の向こう側へ
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☆2/27更新☆
第16回

 僕は病室を出て、一人第一診察室に向かった。

 診察室のドアーをノックした。部屋の中からは何の返事もなかった。

 僕は静かにドアーを押し、中に入って行ったが、誰もいなかった。

 部屋の左隅に、普通の事務机よりずっと大きい机が置いてあった。机の上には4段のラックが置いてあり、そのラックのなかには精神医学の専門書が隙間なく並べられていた。右隅には何の変哲もない清潔そうなシーツが敷かれたベッドが一台、ポツンと置かれていた。部屋の壁はベージュ系の色であった。窓は半分開けられ、午後の日差しと風が、部屋全体に何の遠慮もなく侵入していた。

 僕は、窓からそう遠くもないところに見える小高い丘の緑に、気持ちを吸い付けられるように、立ったまま部屋でじっとしていた。

 小鳥の華やいださえずりが窓の間から部屋に飛び込んで来ていた。 

 10分ぐらい過ぎた頃、背中のほうに人の気配を感じて、僕は振り返った。

「だいぶん、落ち着きを戻してきましたね」と、部屋に入って来ると同時に、その男は言った。

「さあ、田島祐一さん、椅子にかけてください」

 40代半ばで、頭髪が少し薄く、黒縁のめがねをかけ、人に何とも言えぬ安心感を与える雰囲気を持つ医師であった。

 医師と言うよりも、大学で現代文学でも教えているようなイメージを与える人と言った方が正確であったかもしれない。

 僕は彼の指示通り椅子に座り、診察を受ける姿勢をとるのではなく、むしろ何か闘いを仕掛けるような趣で、彼に対峙しようとした。

 僕の主治医は人の心を見透かすように、僕の肩に軽く手を置き、私はきみの味方だから何も心配することないよとでも言いたそうな笑顔を見せ、「そんなに緊張することはないですよ。もっとリラックスして」とゆっくりとした口調で言った。

「先生、聞いて良いですか?」

「ええ、なんですか。何でも言ってくださいね。ここでは、禁止される言葉はありませんし、私は、あなたの全てについての守秘義務がありますから、誰かに伝わると言うことは一切ありません」

 僕は医師の言葉を聞いて、僕が精神的に追い込まれた状況について全て言ってしまおうという気持ちが突然湧いてきた。なにから話すという整理をすることもなく、僕はしゃべり始めた。


 僕が勤務していた大型書店での現金盗難事件が発生した3日目の開店まもなく、僕はいくつかの動揺を隠しながら、バックヤードで取次店から入荷した本の検品作業をしていた。そんな時、僕の直接の上司であった上条係長が検品室に入ってきた。彼は僕の横に来て、作業を中止して会議室に来るようにと言った。

 先輩に検品作業を引継ぎ、会議室に向かった。

 ドアーを開け、部屋に入ると、コの字型に並べられた長机の前の方に、井上店長と松原経理課長が難しそうな表情で座っている。

 店長が、ドアーの所で立ったまま直立していた僕に、「田島君、まあ、かけたまえ」と言った。

 僕は屈折したものを何とかして正常の方向に取り戻そうとする複雑な心境で椅子に座った。僕は疑いをかけられている。いろいろな状況からみて、僕が一番怪しいのだろうが、僕は盗っていない、でもどうやってそれを証明するというのだ……

「松原君、彼に昨日の状況について説明していただけませんか」と井上店長が、横に座っている松原経理課長の方を向きながら言った。

 松原課長は15分ぐらいの時間で、会社に店長を委員長とする調査委員会が組織され、様々な事を検討した上、調査方針が立てられたという説明をした。種々の状況からして、外部のものが盗んだという可能性は少なく、内部の者の犯行だということが結論であり、その前提にたてば、人数は限られており、あらゆる視点から5人に絞ったという事を順序よく説明した。

「松原君、ありがとう。田島君。わかったかね?」と、店長はおもむろに言った。

 僕はどう反応して良いのかわからないまま、「はい」と小さな声で頷いた。

 それで僕が盗ったというのですかと聞きたかったが、すぐに、そんなこと何の意味もないことに気がつき止めた。

 そして、気持ちを引き締め、動揺を示したらだめだという意識で、両手をゆっくりと組み、机の上に置いた。眼を店長に一直線に据えた。

 僕の返事を聞いてから、井上店長は自分たちの判断を確信しているかのような声で言った。

「調査委員会の判断では、君がやった可能性が一番高いという結論なんだ。しかし、決定的な証拠があるわけではないし、あくまで可能性の問題なんだけどね……。ねえ、田島君。何か生活上の事由でお金が必要ではなかったのかね?私たちの議論の結論なんだけど、君が、正直に話してもらえば、今回のことは不問にしようということなんだ、勿論、お金はあらゆる方法で弁済してもらうけど、警察には届けないということにした。田島君、どうなんだ?」

「確かに、お店の売上金を経理課の方に持っていったのは僕です。でも、金庫に入金するのは経理の職員じゃないですか。レジ締めをした後、売場から経理の方へ運搬する途中で、僕が入金伝票を書き換え、現金を横領した上で、経理に持参したとでも言うんですか?そんな、すぐに疑われるようなことをどうして僕がするんですか?それに、生活上で困っているようなことは特にありません」

 その後、2時間近く刑事の尋問のようなものが続いた。

その基調は、正直に言えば、不問に伏すという一点であった。中心的に詰問した井上店長は、時として興奮した口調で僕を脅したりもしたが、僕は一環として彼の疑いを否定した。  次の日も僕があたかも確信犯であるのかのように、ただ「正直な告白」を求められた。 それは、弁済については、君の立場に立ってあるゆる方法を検討するし、君の身分についても、正直な報告さえあれば、不問に伏すという構図を基本にした、バックで尋問を専門とする警察官が指導しているのではないかと思えるほど僕を彼らが欲している結論に誘導を促す見事なものであった。

 3日目からは、「調査」する側の人間が6人に増え、全般的で多角的な質問が僕に浴びせられた。

 僕のその質問に対して系統的に形が整った回答が出来たわけでもなかった。無言でしか対応できなかった場合もあったし、自分で考えてもすぐわかるような論理矛盾に陥らざるを得ない返事も度々であった。その論理矛盾には、6人から続けさまに、僕の質問に対する回答の正当性は崩れたということを機関銃掃射のように追求された。

 4日目も追求が続いた。それも3日間の僕の発言の矛盾を突き、お金を盗ったということを認めろ、そうすれば問題は全て解決するというトーン一色のものであった。 僕はもう、どうでも良いような気分になった。

1時間経過した頃から、突然これは現実なのか、いや何かの実験が僕という個人を媒介にしてなされているのではないか、もともと「現金盗難事件」なんかなかったのではないかなとどという意識が生まれた。

 しばらくの時間の経過の後、僕は一切の現実感を失ってしまった……

何故、僕はここにいるのだ。何故、みんなから責められているのだ。一体僕が何をしたのだ。

 部屋の中にいること事態が耐えられなくなり、息苦しくなった。心臓が経験したこともないほど早くなり、激しく体全体を脈打った。今にも、心臓が飛び出して来そうだった……


 僕が現金盗難事件に関わって受けた一連の詰問について、記憶の綾をほぐしながらしゃべった。

 その詰問の内容によって僕がどれだけ傷つけられたかを、自分の人間観に基づいて出来るだけ客観的であることに気を配り話し続けた。

「先生、果たして僕は異常なのでしょうか?何か難しい精神病なのでしょうか?」

「異常とは何かという問題について科学的な定義を示せって言われてもすぐには出せないと思う。ただ、田島さんが語ってくれた現実の非現実感、そうですね、リアルでビビットな感覚がある一線から消失したということはある精神疾患の特徴的な症状だともいえますね。でも、耐えられないような詰問が4日も続き、不眠が3日続いたという状況のなかでの一定の逸脱を果たして異常だと言って片づけるような気はしません。異常な状況下での異常な反応は人間として極めて正常な精神反応だとある精神科医も言っています」

 藤木医師は、実際、彼のどこが病気なのか、こころに微かな迷いが生じていた。

この病院に入院するに至った精神的状況に関する友人たちから得た情報により、非定型精神病の初期段階、または離人神経症ではないかと思っていたのだが、問診の限りでは意識混濁も思考障害も神経衰弱も見られないような気がしたからである。

 むしろ、その言葉の流暢な流れ、その多弁とも受け取られる内容が気になった。

「一つの精神状態の特徴だけで、特定の病名を当てはめることは出来ないように私は思います。いずれにしても、少し様子を見ましょう」

 僕は医師の言葉を聞いて、不思議にこころを覆っていた不透明な感情が消えていくのを感じた。



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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