「私、ユウちゃんのことを心から好きなの……そりゃあ、精神に障害を持っているから、人よりも随分いろいろな意味で、生きていくのって大変だと思うし、私なんか想像も出来ないくらい苦しみを味わってきたと思う。でも、ユウちゃん負けていないじゃない、私、何となく、解るの。もう、どうなってもいいという気持を抑えながら、先の、そう未来の方向に、消えそうな小さな灯りを見い出そうとして、一人で孤独な格闘をしているということが。秩序立っていなくて、ちょっとアナーキーな気分のなかに、何とかして自分を立て直して、自分を、そして自分の回りの人を信じようとしていく姿勢が」
彼女の鋭さを湛えた猛禽の眼は、優れた女優の演技を間近かで見ているかの錯覚を起こすほど、見事に変化していた。それは、僕がまったく知らない顔だった。僕が知っている純子ではなかった。
魂を丸ごと入れ換えたのように、全力で僕に対峙しようとする迫力は筆舌出来ないほどだった。
僕は何の言葉も挟めなかった。
知らない女性に、突然呼び止められた時のように、返す言葉も表情も適当なものが見つけられず、ただ彼女に吸い寄せられるかのようにじっと顔を向けたまま、黙っていた。
絶対的な存在感を持つ者に対して、僕は夜明けのような沈黙を余儀なくされた。
「今まで、ユウちゃんの苦しみとか悲しさを理解しようとしたことはあったわ、何度も、何度も……でも、そんなこと、出来っこないと思った。人は、気持を分かち合うなんて簡単に言うけど、正直言って、ユウちゃんの悲しさ、口惜しさの底の深さは計り知れなくて、理解しようとするよりも、苦しんだりする姿を眼を背けずに視ていることが大切だと思ったの。簡単に同情したり、解った振りをするっていけないことだと思った。若い私なんか、想像も出来ない世界を生きて来たんだから、そんなユウちゃんの過去に安易に共感してしまうことはユウちゃんの人生とか破れてしまった夢とか願いとかに唾を吐くことになるんじゃないかと。だから、馬鹿にしているなんてとんでもないわ。そう思うユウちゃんこそ、私を馬鹿にしているんじゃない。私の、これまでの態度とか、それこそ私の苦しさとか全然解ってはいなかったんじゃないの。だって、そうじゃない、精神障害者って言い方で自分を特別視しないでよ。世間の不幸を一身に被って生きているような言い方しないでよ。それって、障害を持って生きていっている人に失礼よ!」
僕は黙ったまま、彼女の一言一句を聞き逃すことなく、体全体で受け止めた。
頭の芯がノミで突かれたようにキリリと痛んだ。
どこからともなく、病院に向かおうとする救急車の音が聞こえてきた。アスワルトの道路をを軋ませながら走り過ぎ、かすれ消えていく車の音に耳を澄ませた。
救急車に取り付けられたベッドに力なく横たわって、自分の心音だけが激しく車全体を揺らす中、精神病院に一人で向かわざるを得なかった時に見た、よそよそしい深い闇が、再び僕の眼の前をどん帳のように覆った。突然、体全体が震えだした。
堀川丸太町の近くにあったホテルの12階のレストランで僕たちは食事をしていた。
その店は楕円形に広がっていて、窓は三方に良く磨き込まれた透明なガラスが填められ、外の景色が一望できた。
京都の東山の峰々の黒い影が、停留している船のように丸太町通りの東の方にぼんやりと浮かんでいた。東向きに、灯りを点して走行する車はその船に避難していくため、一心になって急ぐ動物のように見えた。
南は、不夜城を彷彿させる木屋町、河原町の灯に照らされ、ビルの威容が不気味に林立している様が積み木細工のようなシルエットを見せていた。
僕たちは、コースとして出されてきたトマトソース仕立ての野菜が沢山入ったパスタ料理を食べながら、たわいのない話に興じていた。
その日は彼女の23回目の誕生日であった。
彼女は、艶やかなパープルのシャツに濃紺のパンツスーツ、7センチぐらいのヒールという姿でドレスアップし、23歳より3〜4歳上に見えた。普段はあまり化粧をしていないのだが、その日はしっかりとメークアップし、とても、去年大学を卒業したという風には見えなかった。
「ユウちゃん、最近、仕事の方はどうなの?順調に仕事入って来てる?」
「うん、仕事の入り具合はまあまあなんだけど、食べていくための仕事と割り切っていたんだけどね、なんか、最近はもっと違ったものが書きたくなったんだ。」
「違ったものって?」
「どう言えばいいんだろう?もっと社会性を持ったドラマチックな展開があるようなもの」
「うん、よくわかんないけど」
「又、何か形が見えてきたら言うから、今はあまり聞かないでよ」
「うん、わかった」
「それより、純ちゃんに大切な話があるんだ」
「大切な話って何?」
僕は、彼女に精神疾患の体験というか、病的体質というか、心に、ある意味では爆弾を抱えていることを黙っていることに、耐えられない呵責を感じ続けていた。
今でも、リスパダールという精神安定剤を0.2グラム、一日に一回服用していた。
この3年間、入院することも、あれほど悩まされた突発性の不安発作に襲われることもなく、精神は普通の人と何にも変わらないくらいに安定していたが、それでも、(もしも……)という根拠のない不安は払拭しきれず、セルシンという頓服剤をどこへ行くにも携帯していた。
そんな自分の秘密を、全てさらけ出したいという欲求があった一方、秘密を失うことで、彼女との関係も一緒に瓦解してしまうのではという強迫観念を捨てきれずにいた。
でも、この時は、結構飲んだワインのせいか、時として経験する(なるようにしかならないという)自分の狭い経験則を越えた何かに向かって走るだけだという気分が支配的になっていた。
「純ちゃん、精神病ってどう思う?」
それでも、ストレートに言い出すことに微かなためらいがあり、婉曲な言い回しになってしまった。そんな自分が情けなかった。
僕は、心底その言葉に恥じた。
自分の卑小さを思い、逃げ出したいような衝動を必死に押さえた。
「なに、突然何を言い出すの?」
「うん、精神病院ってあるじゃない。そんなとこに入っている人たちのことどう思う?」
「どう思うって、具体的な問題として考えたこともないけど、精神病院というものの存在の意味について、それとも、入院患者そのものの生活について?」
彼女は、僕が言い出したことに対して、避けたり、はぐらかしたりする素振りを少しも見せることなく、真剣な眼差しを僕に向けていた。
「精神病院の必要性とか、存在自体の意味とかじゃなくて、入院している人たちの個性とか、人格とか、うん、患者そのものをどう視るかということなんだけど」
「難しい問題ね。病気に対する正確な見方、そう、医学的な知識が要求されるし、治った人たちをどういう形で社会が受け入れていくのかという問題でもあるし。そうね、かりに、精神疾患が治癒したとしても、その人たちが活きいきとして生きていける環境って今の社会には完全に整っていないじゃないかしら……だから、そういう社会システムの整備とともに、社会全体がその生活をバックアップすることが必要だと思う」
「でも、どうして、そんなこと言い出すの?」
彼女は、決して不思議そうな顔ひとつせず、真摯な態度を保ち続けていた。
「例えば、純ちゃんの近くにそういう人がいたら、どんな感じでみる?」
「どんな感じって、現実にいないから、具体的なイメージが湧いて来ないんだけど」
彼女の真剣な眼差しと、問題を茶化すことなくしっかりと捉えて答えようとする姿勢を見て、僕は心に溜めていた秘密の貯水池が一気に、堰を切って流れ出していくような気がした。
その勢いに圧倒されるように、意志とは関係なく激しく鳴る心臓の鼓動とともに言葉を一気に吐き出した。
「僕がそうなんだ。精神病院に入院したこともあるし、今でも、月に一回精神カウンセリングというか、病院の診察に通っているんだ。精神安定剤だって飲んでいる」
彼女の顔が一瞬にしてこわばった。何か言おうとするのだが、言葉が形にならないようであった。
言葉をよく吟味するかのような趣きで、水の入ったグラスに手をかけた。気のせいかも知れないが、少し手が震えているような気がした。
「それで、どうなの?」彼女は残っていた水を全部飲みきったうえで、静かに言った。
「どうって、何を答えたら良いんだろう?」
二人の間に、霧の深い山の尾根を渡っているかような冷たい緊張感が流れた。
僕は隠していた秘密を吐き出したことで、果たして彼女がどう思うかという不安よりも、むしろ心に開放感が訪れていることが不思議に思えた。
「病院の先生はどう言っているの?」
「うん、初めて入院したときに、焦らずゆっくり治そうということだったんだけど、随分よくなった、規則正しく、無理をしないで生活することが大切だって」
「病気はもう長いの?」
「うん、10年くらい……」
「私、さっき何にも知らないから偉そうなこと言ってごめん。無神経だったかも知れない、謝る。精神疾患について経験も知識もないから、何にも言えないけど、そういうこと、全然解らなかった。おそらくユウちゃん、色々と悩んだろうね……でも、言ってくれてありがとう」
彼女は冷静さをすぐ取り戻したようであった。僕の告白にあまり動揺もせず普段どおりの表情が顔全体に現れていた。
「それで、純ちゃん、僕のこと嫌になったりしない?」
僕は、告白自体だけに囚われて、言った後で何をどうするなどという意識は持っていなかったので、急に子供じみた事を聞かざるを得なかった。
「ううん。そんなことない……。ねえ、ユウちゃん、ジャズバーでも行こうよ」
店のボーイが来てラストオーダーだが、他に何か注文はないかと聞いてきたので、僕はないと答えた。
ホテルを出て、僕たちは朝の5時までやっている四条通りに近い西木屋町の「フォルキー」にタクシーで向かった。
タクシーに乗ると同時に、彼女は僕の手をきつく握ってきた。僕も握り返した。
例によって、彼女の話の展開は完璧だった。
僕は、紛れもなく障害者だったが、他の障害者に対して、果たしてどんな気持を抱いていただろうかー何らかの歴史を形成していく同胞としての連帯意識を持ち合わせていただろうか?果たして、仲間として熱くて強固な愛情のようなスタンスを持って、接してきたのであろうか、どんな関心を寄せてきたというのだ、僕は、一体誰なのだ、何んなのだ……彼女によってつくられた鋭い刃物で、薄っぺらな自我意識が細かく切り刻まれていくような気がした。
(ねえ、ユウちゃん、悲劇のヒーローじゃないんだから、あまり、自分を追いつめないでよ。私、ずっと、ユウちゃんの側にいるから)よそよそしい闇の奥から、確かすぎるハーモニーを持った言葉が聞こえてきた。
僕は、大声をあげて泣き出した。いつまで続くとも知れぬ涙が眼に溢れた。
僕は、その涙で正体不明の恥ずかしさを流し去ろうとするかのように、涙の上に涙を重ねて行った。
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