時間が来たので、僕は第1診察室に行くために、呼吸を整えた。
別に、呼吸を整える必要も、決意を固める必要なども、まるっきりないことは十分にわかっていた。
ただ、自分でさえ、理解することが難しい精神の色々な波動について、それまで会ったことも、話したこともない人に(たとえ、それが精神科医だとしても)診断を任せるというのは、不思議な気持であったし、「あなたは異常です。これからも、決して今まであったような正常な状況に戻ることはないでしょう」などと診断されたらどうすればよいのか、まるっきり対処する方法を思いつかなかった。
僕は、これから始まる未知の世界に入らなければならないことに対して、自分の気持がうまく整理できなかった。
スタートラインに立つことにうろたえて、手応えのない後ろばかり振り返り、何かを探っているような気分だった。
自分の精神の状態を他者から突きつけられることが、ただ怖くて仕方がなかった。
一方、服用していた薬のせいだったのか、ある意味では社会と隔絶した環境のためであったのであろうか、ここに入院するまで度々あった幻聴も、論理的に説明できない妄想も消えていたことで、病院に医師に絶対的、盲信的な信頼をおいていたことも否定しがたい事実であった。
僕は、行くあてのない宙ぶらりんな精神のまま、何の意味もなく、思いっきりこぶしを握ってみた。
そして、少し投げやりの気持で、(主治医にすべて任せるしかとる方法はないじゃないか)とつぶやいて、ベッドから降りた。
何か特別の事をしようとする時、いつもそうであったように、コルトレーンの「マイフェバリットシングス」が心を風のように掠めた。
どうしようもない不安の波紋と不器用に闘いながら、頬を平手で叩きつけたりした……
「ねえ、ユウちゃん、この前の話しなんだけど、毎日の生活がね、なんとなく収まりが悪いの。そりゃ、人間生きていたら、いやなことや落ち込む事なんかも経験してあたりまえで、良いことばっかりじゃないことぐらい解っているけど。でも、なんか、私らしい、私が求めている生活って、別のところにあるんじゃないかって、思えて仕方がないの。」
晴れ渡った空を楽しげに動き回る5月の風が、僕の部屋のカーテンに愛の言葉でも話しかけるかのように弱く吹きつけたり、時には自己の存在を見せつけるように激しく、カーテンを揺らしたりしていた。
5月という季節は、何かが始まる事を予感させる季節だ。
確固として、論理的に整然と人に説明できるものではないが、5月と10月という季節が好きだった。
10月という季節は、活発に胎動していたものがその活動を一時停止し、何者かに変わる準備を開始する時だと思っていた。
その好きな季節のひとつ、5月の風を一杯感じたくて、カーテンを両方に引き、窓を思いっきり開けた。
カーテンレールのジージーという音に、昔の映画のフィルムが回っているような気がした。
僕は、純子の言葉に、部屋に入ってきている5月の風の匂いを感じるとともに、自分が街樹の葉になったような気分で、目をつむったまま、受ける言葉を探した。
「うーん。だれでもさぁ、生きてみたい現実と、現に生きている現実とを持っているんだと思う……その生きてみたい現実というのは夢って、言い換えてもいいと思うけど、夢のなかでさぁ、ずっと生きている人、夢を現実に変えるために、人生の瞬間、瞬間を激しく生きている人、そんな人が果たして、幸せな人って言えるんだろうかなぁ、そんな人たちは、喜びとか悲しみとか、また、怒りとか、はかなさとを体全体に浴びて生きていくんだろうけど、そのためには、あまり人が味わうことの出来ない辛さなんかも心のうちに消化しなければならなくなってくることが一杯あると思うんだ、同時に、自分の夢に対して、敗北とか勝利とかいう尺度で自分の過ごしてきた時間を評価してしまう。仮に、敗北という現実を突きつけられた時、その人たちはどうするんだろう……再び、生きていくには想像の出来ないエネルギーが必要なんだろうね。いや、もう生きていくことに耐えられないかもしれない、うーん、話しがうまく展開できないなぁ、それとは、反対の極に、全てのこと、自分に関わって起きる全てのことなんだけど、それを受容しながら感情をフラットにして淡々と生きていく人たちもいると思うんだ。僕は、決して望まない現実を避ける、逃げるという道を取らずに、全てを受け入れた上で、誰にも言わずに、心の奥にきらりと光る何かを隠し持ちながら、一歩一歩進んでいく人の方に、むしろ拍手を送りたいね。純ちゃん、リアルに現実を見つめ直す事が必要なんじゃない……」
僕はそう言って、思わず、その先の言葉を失った。それは、彼女に言った言葉である以上に、自分自身に言い聞かせているのに気がついたからだ。
「ユウちゃん、すごい!」
「冗談じゃない……」と、不機嫌そうに言った。
「うん、ゴメン。私、以前から、ユウちゃんって、他の男性が持っていない何かを持っているって感じていたけど、それって、今、突然だけど気が付いた。人間として持たなければならない本当の勇気を持っているんだ。生命の輝かしい強さ。それに、他の人に対して、正面から向き合おうとする誠実さ。それなんだ、うん、それ。いつも、何か冷めていて、デカダンスな感じだけど、本当は違うんだ。」
「僕のことなんか、いいよ。それより、純ちゃんの問題の方が先決だろう。」
「うん、実を言うと、仕事のことなのよ。今の仕事って、私に向いていないような気がしているんだ。というより、大学を卒業してから2年経ったけど、ようやく、自分のしたいことが解ったような気がする。」
「今の仕事って、発掘の仕事?」
「うん、嫌というよりも、素晴しい先輩たちがいて、その遺跡発掘の仕事の意味とかよく解るんだけど、その仕事の素晴しさがもう一つ心にしっくり落ちてこないの。過ぎ去ってしまった時代のことより、この時代に現実に起こっている様々な事柄に関わった仕事がしたみたいの。」
「純ちゃんの気持ち、解らない訳じゃないけど、今の時代だって、言ってれば、過去の集積だからその時代の生活資材、生活資料のようなものを発掘して、いろいろ検討を加えることは、現代の時代の文化について再考することを意味しているんだと思うけど、違うのかなぁ。」
「私、結婚とかをするしないにかかわらず、一生仕事は持ち続けたいの。だけど、今の仕事、ずっと続けていく自信ないのよ。やっぱり、自分に動機づけできないものを、続けていくことはどっか無理があると思っている。そんな気持ちでいることは、先輩たちにも失礼だと思うし。」
僕は、彼女の話しの展開、話しのニュアンスを聞きながら、もう何んらかの方向転換について、彼女はその方向性を決定してしまっているだろうと推察していた。
その方向転換の入り口に向かって、着実な歩みで既に進んでいるような気がした。
僕を相手に自分の決意を少しづつ、固めっていっているのではないか、そう思った。
2年間ちょっとの付き合いだけど、見かけよりずっと頑固で、意思も強いことが解っていた。僕のアドバイスで、その何らかの方向性を変える可能性については想像できなかった。
(きっと、何か別の職種をもう決めているんだ)そんな事を思いながら、僕は、じっと、彼女の眼に視線を絡めた。
「私の大学の先輩で出版社を経営している人がいるの。この前、10日程前だけど、その先輩に会ったのよ。大学の頃から、漠然とした形だったんだけど、何となく、出版という事業に興味とか憧れみたいなものは感じていたけど、何故か、踏ん切りがつかなくて、迷ったまま、今の職業を選んだの」
「何のために、その先輩に会ったんだ?」
「ユウちゃん、怒ってる?」
語気が変わったことを、彼女は小鳥のような敏感さでに感じ取り、上目使いに僕の顔を覗き込むように見つめた。
別に、怒った訳ではなかった。ただ、情けなかっただけだ。
純子と僕の関係とは一体何んなのだろうか。果たして、彼女は僕に何を期待しているのだ、僕はどんな役割が求められているというのだ、彼女へのアドバイスなり僕の意見の一つひとつが、彼女の心のなかに意味あるものとして何らかの形を成し、響きをもったものとして届いているのだろうか?
彼女は僕をどう思っているのだ、僕が、ずっと感じ続けている疑問が、いつものように生まれ始めていた。
僕は、自分の存在感の薄さに、自分に対してのどうしようもない無気力感に囚われた。
「ごめんねぇ……」
彼女は戯れるように、両腕を僕の首に絡めてきた。
ブラジャーをしていない柔らかい胸が、Tシャツの上から、丁度僕の乳首あたりを微妙な重さで押した。
僕は黙ったまま、天井の木目を見ていた。
「愛している」
そんな時々聞く言葉で、彼女は僕の右の方を頬ずりしながら、体全体の重みを預けてきた。
その重みで、僕は畳の上に倒れた。いや、倒れたというより、どうでもいいような気持で、単に横になっただけかもしれない。
彼女は、小さな左手を僕の頭をやさしく包むように添え、右の腿で僕の左腿をゆっくりと擦するように動かしながら、唇を重ねてきた。
何故か、僕は、突然身の置き場がないようなめまいと、涯のない悲しみに襲われた。
喉を切るような嗚咽が込み上げてきた。
我慢しようとすればするほど、嗚咽は激しさを増してきた。
冷静を保とうとする自分の意思に反して、涙も頬を伝わって流れて来た。
「純子、おまえ、俺を馬鹿にしているんだろ」
体の上にいる彼女を払い除けるようにして、僕は、震える声を必死に抑えながら、絞り出すように言った。
「俺が精神障害者だと思って、馬鹿にしているんだろ……」
僕が初めて、自分の障害を彼女に打ち明けてから、1年近く経っていたが、僕が決して言わないでおこうと思っていた言葉が、まるで予期せぬ発作のように飛び出した。
「なあ、純子。おまえ、俺のことをどう思っているんだ」
純子は、どうしてこんな展開になるの、という状況が上手く飲み込めないような表情を隠さなかった。でも、僕から少しも眼を離さないまま、じっと何かに耐えているように黙ったままだった。
僕の心のなかで、何かが音を立てて崩れ落ちていくような気がした。
おそらく、僕も彼女も、状況に対して正確な理解を持てていなかったに違いなかった。
「ユウちゃんこそ、なんにも解っていないんじゃない」と彼女は、不退転の意思を表わすかのように、キリッとして、僕を睨むように見つめ直した。何かに向かって、動き出す猛禽の眼をしていた。
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