僕が入院した精神病院には、開放病棟と閉鎖病棟とコンクリートと、鉄の扉で出来ている一般病棟からは隔離された保護室とがあった。
患者がどのように峻別されるかは、僕は正確に理解していなかったが、病状によりその三つの病棟に振り分けられるというのが入院のシステムであったようだ。
全体の入院患者は、誰かに聞いたわけではなかったが、180名ぐらいであっただろうか。
開放病棟は一階と三階で、二階が閉鎖病棟であった。そして、一階の中庭のちょっと奥まったところが6部屋ある保護室という構成であった。
僕は、保護室に二日いて、精神の安定状況についての主治医の診断のもと、三階の開放病棟に移ったというわけである。もっとも、保護室での二日間はほとんど眠っていたので、この三階の開放病棟が僕の初めて経験する精神病院での入院生活のスタートの場所を意味していた。
この三階の開放病棟は、社会復帰ゾーンと病院内では位置づけられ、入院による治療の結果、好転が認められたうえで退院を準備する人々がいた。
閉鎖病棟は24時間施錠され、完全に行動の自由を奪われるという状態であったが、開放病棟はいくつかのルールはあったが、基本的に行動は自由であったので、外出もだいたい自分の望みどおり出来た。そういう意味では、普通の病院よりも行動は制限されることが少なかったので、入院という拘束感はそれほど感じなくても良いのは事実であった。
僕は、入院4日目に主治医の許可にもとづき外出した。僕を担当していた看護婦によれば、僕みたいなケースはまれだということであった。
古い仏閣の鬱蒼とした木々に囲まれた道幅の狭い道を歩いていき、もみじがたくさん植えられている公園の手前のバス停から始発のバスに乗った。この病院の場所は路線バスの終点の近くに位置していたからである。
バスは病院からその静かな流れが見える、名前も知らない小さな川を越えて市街地に向かって走っていった。乗客は4〜5人とまばらであった。
その病院からバスで40分位行ったところが僕の住んでいるところだった。
僕が住んでいたアパートから、セロニアス・モンクとジョニー・ホッまうものだから、自殺という方法を取らざるを得なかったということについては何となく想像することが出来るし、別にそういう行為を取った人をおかしいものだとはおもわないし……べつに批判できない気もするけどね。ただ、やはり、生きていく姿勢を持つことは誰の人生にとっても必要なことだとは思うんだけど……」
「そうね。そう言ってもらうと、少し気が休まるね。ねえ、でも絶望ってわかる?もう生きててきていた。何度か気のない返事をしていたが、彼女にもそれは解ったらしく、突如「話を聞いてくれてありがとう」と言って、席を立った。
僕は、何か悪いことをしたような気分になったが、かといって、どうすることもできなかった。部屋の方に引き上げていく樋上通子の後ろ姿をただ見つめるだけしかできなかった。
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