川の向こう側へ
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第11回

 精神病院での生活も開放病棟に移った3日目あたりから、処方された薬の影響か、僕の精神も幾分安定し、自分の病的状況に対して客観的にとらえられるようになっていた。

とらえどころがなく、出口がないような鈍い絶望感からは何とか脱し、真剣に精神の安定をはかる積極的な姿勢が現れ始めていた。

ただ、処方された薬の副作用のため、体全体に表現のしようのない脱力感があった。自分のからだが自分のものでない感覚が僕自身を支配していた。

そのため、僕は何をすることもなく、ディルームでぼんやりとしていた。

 「田島さん、友人の方が面会に来ておられますので、一階の面会所に行ってください」と看護婦になったばかりというような年令の女性が僕に近づき、言った。

 誰にも会いたくないような気分だったが、仕方がないので階段を使って、1階に降りて行った。

 面会所は院長室の隣にあって、12畳ぐらいの空間に、四つの丸い木のテーブルがセットされ、廊下と部屋にはドアーはなく、カーテンで仕切ってあった。

僕はカーテンをくぐって面会所に入った。

面会者は大学1年からの友人、前田だった。

「おー、田島、大丈夫か?」

「前田、今日仕事はどうしたんだ」

「うん、年休をもらって休んだんだ。木村からおまえがここに入院したと聞いたから、びっくりして駆けつけたんだ」

「田島、もう精神の方は安定したのか?」と前田は言いながら、面会所に予め用意してあった湯呑み茶碗を取り、ショルダーバッグから取り出した保温ポットの口を開けて、コーヒーのようなものを注いだ。

「病院にいたら、インスタントコーヒーしか飲めないと思って、コーヒーショップで買ってきたんだ。ほら、おまえも時々行っていた“マエカワ”のブラックコーヒー。」

 僕は、大のコーヒー党で一日に3杯から4杯、ブラックコーヒーを飲んでいたから、この差し入れには喜んだ。

「ありがとう。でも、コーヒーとはよく気がついたなぁ」

「それより、おまえがこんな病院に入院するほど、苦しんでいたとは全然知らなかった。おまえが何にも言わないから、何の助けにもならなくて……でも、思っていたより元気そうなんで、安心したよ」前田はそう言うと、グレーのチェックのシャツからたばこを取り出し、ライターで火を点けてから、僕の眼をしっかりと見つめ、おもむろにしゃべり始めた。 「こんな事聞くべきではないかも知れないが、今度の入院は何が原因だったんだ?昔から、おまえは人に相談するというよりも、自分で何でも解決しようといていたからなぁ。なにか、俺が想像もつかないことで悩んでいただろうとは思うけど」

 僕は前田の質問に答える言葉を見いだすことは出来なかった。

ここへの入院を手配したのは、友人の木村と石田だったが、僕自身、精神病院に入院するほどまで何故自分自身を追い込んでしまったのかよくわかってはいなかった。

「うん、ある事件がきっかけだけど、神経が覚醒して眠られなくなったんだ。確か、三日は眠っていなかったと思うけど……きつい睡眠注射をうたれて、気がついたらここにいた。何でも、40時間ぐらい眠っていたらしい、うん……」

「で、ここの生活はどうなんだ?」

「そうだなぁ、知らないままに時間が過ぎていくという感じだ。薬のせいだと思うけど、この前までの緊張感が嘘みたいだ。とてもリラックスしているよ」

僕はそう言ったが、一日も早くここから出たいというのが本音だった。別に、リラックスしているわけではなかった。

 会社で悩んでいた問題から逃げられて、一種の爽快感があったのは事実であったが、それは一時期、考えることが遮断されただけのことで、問題自身は何ら解決されてはいなかった。ここを出れば、又、その問題に直面しなければならないことは否定出来ないことであった。

そのことは、決して忘れることが出来なかったが、僕は極力そのことは考えないようにしていた。

「まぁ、いろいろあるだろうけど、世間のことは一時期忘れて、ゆっくり静養することだなぁ。先生はどう言っているんだ?」

「うん。精神的にも肉体的にも疲れ切っていて、一時的な精神錯乱状態になっていたから、少し入院で経過を見ようということらしい」

「そうか。先生の言うことをしっかり聴いて、十分に休むことが大切じゃないかな。なーに、精神病院への入院ぐらい大したことではないよ。しっかり、気を持てよ。なあ、田島。」

そう言って、前田は僕の肩を軽くたたいた。

「うん、そうだな。おまえの言うとおりだよ」

「じゃ、又来るから。ポットにコーヒーがまだ残っているから、後で又飲めよ。」

 前田はポットを僕に渡してから、面会所の席を立ち、玄関の横にある受付に「面会ありがとうございました」と挨拶をし、病院の広い駐車場にとめてあった車に向かって行った。

 僕は、何となくほっとした気分で病院の駐車場から、川の向こう側へと消えていく前田の車をいつまでも見ていた。



■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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