飯島純子は京都の左京区で生まれた。学生たちが行き交う百万遍の近くであった。
母親は家で書道教室を開いていた。その書道教室は誰でも入れたが、小学生と中学生が中心であったみたいだ。30人ぐらいの生徒がいたという。彼女は小学校の頃、その書道教室で書を学んだ。母親の遺伝であったのであろうか、何回も書道のコンクールで入選したという。小学生の時代は、他に水泳も習ったとのこと。誰よりも長い時間泳げたが、スピードは遅かった。私立の中学に進み、生物クラブに入って様々な活動をした。
高校時代は、文芸部に所属し、同人誌のようなものを何人かの友人とともに創刊したらしい。
演劇にも興味を持ち、高校二年の時、文化祭で初舞台を踏んだ。
高校の三年からは、受験勉強の合間に川端丸太町にあったジャズ喫茶「ブルースポット」に一人で出かけて行ったという。彼女がジャズを聴き始めたのはボーイフレンドの影響であった。
彼女はビーパップの力強さが好きだった。「ブルースポット」でジャズを聞きながら、本をよく読んだ。アメリカの現代小説が多かった。そんな話を僕は彼女から聞いた。
人と人との出会いに果たして必然性などというものがあるのであろうか。人の意志がまるっきり関与しない誰かの気まぐれによる偶然性に彩られたものではないのであろうか。
それはともかく、僕は飯島純子と知り合った。
僕は、精神病院に入院した25歳から人生を半ば捨てて生きる習性を身につけていた。というよりも、明日に対して、出会った人に対して、何らかの希望を抱いても、僕の意志を越えた透明感を持ったうまく認識し得ない“力”によって、ことごとく粉砕され続けてきた。
僕は、涙も流さずに心の闇の中心あたりで、いつも泣いていた。希望が跡形もなく粉砕されつづけた僕の生活のなかで、泣くことが僕に許された唯一の生きる権利であり、自己の生命一この世にあって生きている自己の存在と精神性を証明する方法であった。
僕は泣くことで、人との間に存在している越えることの出来ない距離を知り、人に裏切られることで、厳然として存在している社会と客観的世界を認識した。
誰にとっても、当たり前のことかもしれないが、僕は何度か恋をした。そして、彼女らは、ある瞬間僕とともに生きたが、いつか授業が終わり家路を急ぐ子どものように去っていった。
そのたび僕は寂寥感に囚われ、身をじっとしていることが出来ず、鬱的な心象世界を一人で旅をすることを余儀なくされるだけであった。
残された僕の生活は未完成で統一感のないアラベスクのようなものだった。
僕の客観化された平たい記憶のなかでは、美しい文様を持った風景の断層がいくつもその完成を寂しく待っていた。
(でもいいんだよ、僕は精神障害者なんだ……。いいんだよ、どうでも)
半ば人生を捨てたような生き方は僕の本来のスタイルとは正反対のものだったが、何かを捨てなければ僕は何も得られないような気がしていた。
何かを捨てることは、耐えられる限界ぎりぎりの悲しい痛みを伴ったものだったが、その廃棄という非人間的な行為は何かの力によって余儀なくされているという感じであった。
(そうだ、僕は完膚無きまでに徹底的に、完全に打ちのめされたボクサーなんだ……。もう、リングという舞台にあがることなんてないんだ)
生きるための選択の余地は、僕が何かを何とかしようとすればするほど少なくなっていくというジレンマで、暴風雨に晒された浅瀬のように削り取られていった。
それを僕は決して望んだわけではないが、誰かが定式化した物理の法則のように認めざるを得ない世界観であった。
いろいろな生きる局面での希望喪失のプロセスのなかで、あえて生きていくために、僕が学んだ方法であった。そんな僕にとって、純子との出会いはどんな意味を持ったものになるのであろうか?僕は単純に彼女が熱帯地方の太陽のようにまぶしかった。彼女に対して何が出来るというのだ
飯島純子。21歳のあらゆる可能性を持った大学生。
どう生きていくかについて、種々の選択が可能なステージに位置している人間。
自分の希望を夢を、望み通り描いていける可能性を持っている存在。
何事においても、僕と異なった空間と時間を手にしている人間。
僕は、彼女に対していったい何が出来るというのだ。
僕にはこれからも、何かを獲得していくのではなく、何かを失い続けることに耐えて行かねばならない世界が待っている。僕が彼女に何を与えられるというのだ。
僕は、飯島純子と知り合ったことで、心の真ん中に、決して消えることなく沈殿している悲しみの残滓が揺れ動くのを感じた。
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