「将来、やりたいこととか、なりたいものとかないの?」
僕は話の展開を十分に考えないまま彼女に聞いた後、その質問と関わりなく、自分の大学三回生の時のことを何となく思い出していた。
僕も将来、何になるのかというような願望とか希望とかは持てていなかった。社会とか人の生き方とか結構考えてはいたが、自分の生きていく道に対する確信が揺るぎなく確立されているわけではなかった。
(僕だって、随分、就職のことなどで悩み、迷ったものだったなあ)などと心で勝手に思っていた。
「ええ、友達なんかはもうどの企業へ行くとか決めているみたいだけど、私はぜんぜん決まらなくて……」
彼女はうつむき加減で、少し寂しそうに言った。
「うーん、別にそんなに深刻になることもないと思うよ。短い人生経験の中で自分の適性を発見する事なんて、むしろできっこないんだから。ほら、あの適性試験だっていいかげんなもんだよ。だからむしろ、今の課題を真剣に取り組んでいく方が大切じゃないかなあ。就職にしたって、どんな仕事だって、する意義や意味を持っているし、意味があるから仕事は存在しているんだと思うよ。給料だって、そりゃあ高いことにこしたことはないけど、最低限生きていくために必要なお金さえあればいいんだと思う。大切なことは、仕事の内容よりも、どんな態度で社会や人間を見るかということだと思う。うん、つまりどんな人間になるかということだよ。だから、仕事そのものが人生の目的ではなく、社会や人間関係の中でどう生きるのかが問題だと思う。でも、そんなことを言ってもしょうがないか……」
そう言いながら、心では別のことを考えていた。
普通の、つまり世間一般に通用する意味では、僕は、ノックアウトされて再起不能に陥ったボクサーのように徹底した、完膚なきまでの人生の敗北者であった。
完膚無きまで叩きのめされた者に残された道は、社会におけるあらゆる競争に参加することを諦めることである。
徹底した敗北を、透徹したリアリストのように根拠のない希望は捨て、陳腐な修飾語を排して、素直に認めることである。
その敗北を容認した上で、人に知れることなくなおも許されるすみかを探し出すこと、又は残されている居場所を探求することが生きていく上で僕に課せられた責務ではないでかと考えざるを得ない事が日常の風景だった。
一方、いつの日にも、科学者のように理知的なもうひとりの僕がいて、完膚なきまでの敗北を決して認めようとせず、果敢に立ち上がって再びの闘いに参加させようともう一人の僕を説得していた。
僕は合法則的に、美しく統一した自分を持てず、きれぎれになった自己を何とか不器用に縫合させながら、時として変わることなくやってくる心の危機(精神の異常と言っても良い)の到来に、立ち向かっていくのではなく、ただ黙って耐えることを余儀なくされていた。
惨めではないか……
(仕方ないじゃないか。それが現実だよ。そう、それが君の人生なんだから)
そんなんでは生きている意味がないじゃないか……
(お前は現に生きているじゃないか。ただ、負けただけだ。死んではいない。変な欲望なんか捨てて、もっと心をスリムにして生きていけばいいんだよ)
「どこか、気分が悪いんですか?少し、顔の色が悪いようですけど」
彼女が少し心配そうな顔をして、僕の顔をのぞきこむように見た。
「え、うん、ちょっと、変なことを考えていただけだから」
そう言って、不安定になりかけた心の動きの様を隠した。
「うん、やっぱり仕事というのは生きていく手段だと思う。仕事のほかに何かを生きていく中で発見することが大切じゃないかなあ。勿論、そんなこと簡単には見つからないと思うけど……」
「田島さんって、仕事はどんなものでもいいと思っているんですか?」
「うん。でも自分がやりたくないような仕事は避けたほうがいいと思うけど、仕事を選択する基準なんて人それぞれだと思うよ。要は、納得できるかどうかが問題じゃあないかな」
「ミスティ」で僕は飯島純子と二時間ちょっと話した。就職については自分でもう少し考えてみるということだった。
僕はそれが一番いいと思った。
何事にも当てはまり、誰でも認めるような普遍的な価値尺度なんてこの世に存在していないと思うから。
何がいいか、悪いかなども(一般的な常識は別にして)、個々の状況に応じて自分で考え判断するしかないことを僕は語った。
彼女の両親のこと、兄弟のこと。生まれた場所などについて聞いた。父親は高校の校長をしていて、とても厳格だという。女ばかりで、三人姉妹の長女だと言っていた。その他、友人のこと、趣味のこと、好きな作家、好きなジャズミュージシャンなどを聞いた。
彼女はその外、大学生活など自分のプライベートなことを僕に語ってくれた。
そして、お互いの電話番号を交換し、改めて又合う日を決め、その日は別れた。
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