僕は大学では自分の専攻とは関係なく経済学と哲学を研究するサークルに入っていた。
そのサークルは、主として、資本論を読んでいくサークルだったので経済学の知識は少しだけだが持っていた。
「経済って、どんなことを勉強しているの?」
「日本の経済政策の歴史のようなものです」
彼女は何でも聞いて下さいという表情をしながらはっきりとした口調で答えた。
僕は大学の勉強などたかが知れていると思っていたし、社会に出てからの経験のほうがはるかに貴重だと考えていたから、彼女が何を大学で勉強しているかなどあまり興味はなかったというのが正直な気持ちだった。
ただ、会話のとっかかりに聞いたにすぎなかった。
僕の腕が偶然彼女の体に触れたことで、突然、何の脈絡もなく始まった会話だけに何をどう展開して良いのか解らなかった。でも、何となく話を続けたい気分であった。それほど彼女は魅力的に見えた。
「サークルは何か入ってるの?」
「ええ、哲学研究会です」
「その研究会では、そのー、弁証法とか唯物史観とか研究したりするの?」
僕は大学時代のことを思い出しながら聞いた。
「いいえ、主にヴィトゲンシュタインを中心に論理学、言語哲学を勉強しています」と、明るい笑顔ではっきりとした口調で答えた。
僕は言葉に詰まってしまった。
ヴィトゲンなんとかはまるで知らない世界であった。どう話を繋いで行けばよいのか解らなくなった。同時にその論理学、言語哲学の内容についても話が出来るとも思わなかった。
「うーん、難しいことを勉強しているんだね」
「そうですか?、でも大学生の知識とか知恵とかしれてますから……」
僕はその「しれてる」という言葉を聞き、何となくほっとした。
彼女の大学生としての限界性などについてしっかりと認識している態度に共鳴し、何となく分別を知った大人らしさを感じたからだ。
僕はコーヒーカップを見て、もう入っていないことを確認してからコーヒーの追加を注文した。
JBLの大きなスピーカーからは、デューク・エリントンの哀愁のある曲、「インザセンチメンタルムード」の細やかなピアノの音が流れていた。その曲を聞きながら、僕は新しく入れられたコーヒーをブラックのまま味わい、タバコを喫っていた。
彼女はその曲が終わったとき、突然僕に唐突なことを聞いてきた。
「ライターって……その……やりがいのある仕事ですか?」
僕は、「え!」という顔をしながら、黙ったまま彼女の顔を見た。
真剣に見つめる眼があったが、その質問の適当な答えは僕の心にすぐには浮かんではこなかった。
店の曲はビリーホリディのバラードに変わっていた。「ラバーマン」が終わり、「ドントエックスプレイン」が流れ、切なくなってくるような雰囲気を醸しだしていた。
「あのー、仕事を選ぶときの基準ってどんなものなんですか?」
彼女は黙っている僕を見て、言葉を変えてきた。
別に、僕に意地悪しているようではなかったし、おそらく自分が就職するときの参考にしようと思って聞いてきたのに違いなかったが、初見の人間に聞くようなことでもなかった。
僕は、喫っていたタバコを灰皿に置き、カウンターに両肘を置いて手で眼をこすった。
困ったときの僕のクセであった。
仕事のやりがいなどというものは僕に関わる性質のものではなかった。
ただ食うためにしているというのが正直なところであったからである。
「この店には、良く来るの?」
「ええ、ときどき来ます」
「じゃ、又会えるね。そのときまで君の質問良く考えとくから……」
「はい。言いそびれましたけど、わたし飯島純子といいます」
「ああそう、僕は田島祐一」
別に劇的という形容をするほどでもなかったが、僕と純子の出会いは彼女の積極的な性格からくるであろう少し強引な演出されたかのような会話から始まった。
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