「ねえ、起きてよ。もう8時よ……」
僕の背中の方から、彼女の心地よい声が聞こえてきた。僕は寝返りをうって彼女の髪を手で触れながら頬に軽くキスをし、翳りのある昨日の表情がすっかり消えていることを確かめた。
「今日は日曜日だから、もっとゆっくり寝ていようよ」と言いながら、布団で顔を覆い、もう一度寝返りをうった。
「ダメよ、いい天気だから早く起きよう」と、彼女は僕の提案に同意せず、僕の布団をはがすという行動にでた。
昨日の激しい雨は、定住の場を持たない旅人のように過ぎ去り、窓からは季節が変わってしまったかのように朝の陽が二人を包むようにやさしくさしていた。
僕は彼女の「幸福論」への回答をぼんやりと考えながらベッドから起きあがった。
その日、僕はマンションの近くにあったジャズ喫茶にいた。
その店は、小さな公園の横の建てられてから随分とたつであろうビルの一階で、ひっそりと佇むようにしてあった。
薄い茶色のペンキとニスで仕立てられた板の外装は周辺の店とくっきりと異なって、密かな個性を静かに主張しているようであった。
店の中は狭く、一枚の厚い板でできた渋めの茶色のカウンターだけで、十人も座ればいっぱいになる広さであった。照明は何処で探してきたのか薄い真鍮のかさに薄いブルーの裸電球がしつらえてあった。奥の方では高さ150センチ位のアンティックなスタンドが淡い暖色系の光を放っていた。
店内の壁には貴重だと思われる古いレコードジャケットがディスプレイしてあった。
店の窓から見えるバランス良く植えられた公園の木々と花が格好の借景となって、店にいる人々をなごますようになっていた。
店の名前は「ミスティ」といった。
昼を過ぎた頃から、僕はブラックコーヒーを飲みながら、雑誌の原稿を書いていた。東北の旅行についての記事であり、締め切り間近であったが、なかなかまとまらず必死になっていた。
店ではニーナ・シモンの太くて男性的なボーカルが、あせる僕をなだめるように適当なボリュームで流れていた。
長い時間集中して原稿を書いていたため僕は少し疲れていた。
休もうとして、水が入ったグラスの横に置いていたハイライトに手を伸ばそうとしたとき、腕が隣りに座っていた女性の胸に触れた。
「どうも、すみません……」
僕はバツが悪そうに小さな声で言って少し頭を下げた。
その女性は十分にはきこんだストレートのブルーのジーンズに鮮やかなオレンジのクルーネックセーターを着て、髪はショートボブでとても活動的な感じがした。
フッション雑誌を読んでいたが、その雑誌をカウンターに置き、足を組み替えながら僕の方に体を向かせて、少し笑った。
「なにか、一生懸命に書いていらっしゃるんですね。なにをお書きなんですか?」
何か、聞くチャンスを待っていたかのようにごく自然に僕に向かって聞いてきた。
「え?ええ、つまらない原稿です」
僕は答えることばを探しあぐねて、おもわず言ってしまった。
「つまらないというと?」
紹介するほどのものではないと思ったので、軽く言ったつもりであったが、彼女はどうも真剣に内容を知りたがっているようであった。
「“センチメンタルな旅行”という女性誌の特集記事なんです。あまり、旅行のガイドブックに載っていない東北をぶらぶら歩いてきたんだけど、その旅行記のようなものをまとめているんです。明後日が出版社の締め切りで焦っているとこなんです」
「……お仕事はライターなんですか?」
彼女は不思議そうな表情で僕をしっかりと見つめながら言った。
僕は一瞬たじろいだ。
ライターと言えなくもなかったが、原稿仕事だけでは生活は出来なかった。
この一年ようやく、原稿依頼が継続的に入ってくるようになったが、それ一本で生活できるほどでもなかった。様々なアルバイトで生活しており、そちらの収入の方が多かった。
「ライターといえば、ライターなんだけど……」
「へぇー、ライターなんですか。何んか格好いいですね。私、大学で経済学の勉強をしているんです。大学三回生で。来年は就職活動だから、最後の大学生活って感じで、いろいろ好きなことをしているんです」
何故だか、僕が以前から彼女の親密な知り合いだと錯覚してしまうほど親しみの込もった、とてもしっかりとしたトーンで言って、ジンジャーエルの入ったグラスに手を伸ばし、顔をあでやかにしている、何かを訴えかけているような目を少し細め、おいしそうに飲んだ。
窓からは沈みかかった初冬の夕陽の柔らかい光がさしこみ、店をしっとりとした雰囲気に変えていた。店に流れているジュエル・ブラウンが歌う「タイムアフタータイム」がそれに拍車をかけていた。
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