窓をたたきつける雨の音をBGMに、僕たちはいつもと同じように抱き合った。時として、部屋の外からは僕たちに呼応するかのように、空を引き裂いてしまいそうな鋭い雷の音が断続的に聞こえた。雨は決して疲れることなく、激しく降り続けたままであった。僕たちは不確かな愛のようなものを確かめ合った後、裸のまま二人でその余韻を楽しみ、ベッドに仰向けになったまま底のない海のような深い眠りに落ちた。
気がつくと、18畳位の広さで四方がコンクリートの壁で、入り口は頑丈そうな鉄で出来たドアーが一つという部屋に僕は一人いた。コンクリートの床に直に敷かれた白い布団の上に、僕は何をすることもなく静かに横になっていた。体全体に力が入らず脱力感があった。部屋の中には、布団の他何も置かれていなかった。壁は黒く煤けた感じで所々にシミがあり、落書きもしてあった。古いものらしく殆どその内容は判別できなかったが、「ここまで来て、果たして俺は、何を望むべきか」という文字だけが辛うじて読めた。部屋の片隅には凹んだトイレのようなものがあり、不快な臭いを放っていた、そのトイレのようなものには法則的に決められた間隔で水が流れる仕組みになっていた。鉄でつくられたドアーの反対側の壁の左上には40センチ角の鉄格子の小さな窓があった。その窓からは唯一外との接点を残している鈍い光が差し込んでいたが、部屋全体を明るくするほどの強さは持っていなかった。その部屋全体は太陽が沈んだ夕闇のように薄暗かった。部屋は決してきれいではなかったが、不潔というほどでもなかった。壁と同じ色の床の所々にはお茶のようなものが入ったコップが5.6個並べて置いてあったが、何の為のものかを理解するのに少し時間が必要であった。僕は街の喧噪から離れて孤独を楽しまざるを得ない環境に一人置かれているようであった。果たして、何が起こったというのだろうか……。ここはどこであろうか?
突然、鉄のドアーが鈍い音ともに開けられ、白い服を着た3人が少し警戒するような趣きで部屋に入ってきた。眼鏡をかけてインテリ風な男が僕の横に座り、腕を少し揺すりながら呼びかけた。
「田島さん、田島さん、田島祐一さん」
「え?あー、はい……僕はどうかしたんですか?ここはどこですか……」
かすれた小さな声が薄暗い部屋の空気を揺らし、どんよりとした部屋の静寂を乱した。でも、本当に僕はどうしたんだろうか。迷子になった子供のような不安が、歓迎しない訪問者のように僕の心にやってきた。
自分の周りに理解できない事態が生じたとき、人は不安の淵に立たされた感情に囚われ、その不安をかき消すために身構えるものだ。その不透明で受け入れられないような時間が僕に訪れ、やたらと心を乱した。
僕がいるのは病院のようであった。いつの間にか僕が移された部屋には他に6人の男たちがおり、髭を剃っていたり、お茶を飲んでいたり、お経を唱えていたり、雑誌を読んでいたり、それぞれ周りを気にすることなく好きなことをしていた。それらの人に混じって、僕はベッドの上に所在なく座っていた。
「おい、お兄さん、入院かい。」
五十半ば位で、何故か知らないがサングラスをかけ、黒のシャツに茶色のジャケットを着こんだ、少し恐そうな男がベッドから僕に尋ねてきた。
「えー。そうみたいですね」と、ひと事のように僕はその男に向かって力なく答えた。
「ここは、初めてかい」
「えー、初めてです」
「なーに、すぐ馴れるさ。なにか解らないことや、困ったことがあったら俺に聞けばいいから」
その男はこの場所のことなら何でも知っているという口振りで、僕に向かって言った。
「あの……ここはどこですか?」
「変なことを聞くね。どこって、精神病院よ。清風第二病院……」
僕は、疑問に思っていたことが、梅雨明けの夏空のように一気に晴れた。自分が居る場所さえ解ったら、精神病院であろうと何処であろうと落ちつける。(ふーん、ここは精神病院か)僕は妙に納得してベッドから起きあがった。軽く腕を振り、2回ほど首を回した後で窓を開けた。
窓には10センチ間隔で、無表情に鉄格子がはめられていた。その窓からは、病棟の中庭のすぐそばを何処に続くとも知れない川が竹林をぬうようにして流れていく様が見えた。川の水は無言のまま、たゆまなく一定の流れを保っていた。その川の流れは、僕に(大丈夫だよ……)と呼びかけているように思えた。
僕はおもいっきり腕を上げ大きく欠伸をしてから、おもむろにたばこに火をつけ一口喫い、煙をゆっくりと吐いた。薄い雲の間からはキーンとした青空が見えていた。
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