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「希望」という歌があるが、青年は絶望の淵にいた。
青年より1ヶ月遅れで入店していた予備校生がついにノイローゼとなり、田舎の両親が引き取りに来た。店主夫婦は両親に「真面目過ぎたので…」。それでも両親は深々と頭を下げた。予備校生はすでに青年の名前も思い出せないほど病に冒されていた。新聞配達しながら大学進学を夢みていた彼の将来を、販売店の現実は奪い取った。
ノイローゼは青年のとっても他人事ではなかった。
夕刊無い代わりに夕食も無い日曜日、今熊野の中華料理店が210円で豚カツ、ラーメン、ご飯と漬物が食べられると販売店で評判になりよく通った。その帰り道、遠くに京都駅の灯りが見える東海道線高架橋に立ち、青年は一人その灯りをボ〜ッと見ていた。
何のため京都に来たのか?大学には行けない、これからも行けない。学友もいない。
自分の周りは販売店のごろつきばかり。給料もまともに出ない。近々出なくなるだろう。
体はきつい。…絶望。遠くに見える京都駅。借金すれば、この線路に続く九州には帰れるが…。
そんな2月のある日曜日も、夕方フラフラと四条寺町の電気街へ。
そこで多くのTV画面から青年が見たものは、「笠谷、金メダル!」。そう、72年札幌五輪でのジャンプ金、銀、銅の表彰台独占。BGMのテーマ曲・トアエモアの「虹と雪のバラード」が何度何度も画面同様流れていた。青年は忘れかけていた「感動」を久しぶりに味わった。
2年目の3月、後輩の大学生が数人奨学生として入店してきた。
青年の気持ちは冷めていた。「現実を知ればすぐ辞めるだろう、そして読売本社から学費立替の取立てにあうのだろう」。(新聞奨学生は、4年間の販売店勤務と引き換えに4年間の学費免除。途中退店は返還義務あり。その取立ては親元にも及ぶ。つまり新聞奨学生は辞めたくても辞められない仕組みになっていた)
資金繰り悪化、給料遅配ついには無給と、販売店が荒れる要素に事欠かなかった。
大学2回生の青年はいつの間にか、販売店の全区域(1200部)の配達を覚え、集金、拡張も店主同様こなしていた。逆に大学にはほとんど行っていなかった。それにはもう一つの理由も加わっていた。いわゆる大学紛争で、ヘルメット集団同士や当局との争いで大学も休講続きで荒れていた。
6月頃だったろうか?ある日の未明、家財道具一式残し、着の身着のままで店主家族4人が夜逃げしていた。
(5ページに続く)
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