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しだいに大学に行けなくなった。
体がついていかない。通学の気力もなくなりつつあった。
集金、拡張業務が固定化する、寝不足で体はきつく正常な判断もしにくくなり、体を休めたい方へ動く。時間があれば寝ていた。当初は朝刊配達の後、10時頃まで仮眠だったが、配達量が多くなり、疲れが溜まるととても10時には起きれない。ほんの30分ばかりと思い布団に入ると、目覚めるのは12時近くというパターンが多くなった。数時間後の夕方3時半からは夕刊。毎日、:新聞配達に縛られている:感覚が強くなる。
それでも、朝夕の配達だけなら、時間拘束という見えない物だけとの格闘だが、集金、拡張という対人業務になると疲れが増す。
毎月20日過ぎに自分の一配達区域の約100枚の請求書が渡される。まず一回集金に廻ると、一番良質の読者で約50軒(枚)近くが集金出来るが、問題はここから。「読売新聞の集金ですが…」「ああ〜今度来て」。又「ウチ、新聞頼んでないのに入っている」。ああ〜プロの拡張員のいい加減な購読契約でまたしても…。
宮川町の遊郭街のアパートは水商売の人ばかり。だからその人の生活スタイルに合わせて、夕刊(時間帯)配りながらの集金。
だから、残り50軒からが勝負。一軒、一軒集金できるまで、配達以上の労力と時間を費やして区域を昼夜廻る。更に拡張強要と仕事はどんどん増やされる。
「押し紙」での資金繰り悪化で、店には今で言うサラ金業者の取立て。店の専業員も集金持ち逃げ、配達現場からの逃避、酒飲みながらの配達など、言葉は悪いが「ごろつき」の集まりだった。学生の「清い大志」は俗世間現実生活の前に脆くも崩れ去った。店の資金繰りの悪さはついに集金も当月始めになった。普通新聞代集金は、その月末か翌月初めだがそんな悠長さは許されなかった。それもそういう無理難題の集金は:勤労学生の懇願:が読者受けするだろうと強いられた。その集金額をそのまま金融業者へ持参を命じられた事も数回あった。
住み込み、朝夕食付(日曜日は夕刊無いので夕食無し)なので、給料は3〜5万円だったろうか。秋頃からその給料が分割、そして遅延になってきた。
手持ち金が底付きつつも、正月は元旦号を配達したら3日朝刊までタップリ時間があるのが嬉しかった。当時、新聞休刊日はこの正月1回だった。ほぼ毎月休刊日のある現在とは隔世の感。元旦夕方から起き出し、前日買出ししていた鍋食材と安酒をごろつき連中と。
TVでは「木枯らし紋次郎」、主題歌の上条恒彦「誰かが風の中で」が流れていた。
独力独学の大志を抱いて、寝台急行で関門海峡を渡った青年の初めての京都の正月は、
こんな荒んだものだった。
(4ページに続く)
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